第五章
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ケムヨにできることは直接業者に間違いを伝えて謝ることだった。
落ち着いて人が居ない場所で電話をしたくて、自分の携帯電話をロッカーに取りに行こうとしているとき、専務の須賀とすれ違い声を掛けられた。
「廊下を必死の形相で走ってるなんてあなたらしくありませんね。どうかしましたか?」
「専務……」
かつての自分の上司であり、翔のことも良く知る人物。そしてケムヨがこの会社で最も信頼する人でもある。
優しい瞳で語りかけられるとケムヨはつい全ての事情を話していた。
「そうですか。それならば、こちらに来なさい」
須賀は執務室へと案内し、そこの電話を使えと指示をした。
ケムヨは言われるまま窓際に設置られていたデスクの上の電話を取り、業者の電話番号をプッシュする。
そして深く謝罪をして事情を話すとなんとか事が収まった。最後は激励までされて、事なきを得た。
安心して電話を切ると、ケムヨの肩の力が抜け、同時に鼻水が蛇口をしめられないごとく垂れてきた。慌てて洟を抑えてすする。
「おや、風邪ですか?」
「はい、ちょっと」
落ち着いた笑みを浮かべ、須賀はティシューの箱を差し出しす。それを恥ずかしげにケムヨは一枚抜き取った。
さりげないことでも、須賀はいつでもケムヨを気遣うように優しく接する。
ケムヨはそれに甘えるわけにも行かず、すぐにそこを去ろうと深く頭を下げて礼を言う。
「どうもありがとうございました。助かりました」
そしてドアに向かいドアノブに手をかけようとしたが、突然動きが止まってしまった。
「あの……」
聞きにくいことを聞こうとしたために、後の言葉が続かなかった。
「どうしましたか?」
「いえ、なんでもありません」
ケムヨは潔くドアを開け去っていった。
そして廊下を歩くがふと立ち止まり、出てきた部屋を振り返ってしまう。やっぱり聞いておいた方が良かったのだろうかと、後悔していた。
ケムヨが聞きたかったこと、それは翔がいつここへ戻ってくるのか、ある程度の情報だった。
しかし、翔のことを聞けばもっと動揺してしまうかもしれない。そう思うと知りたくても怖くて聞けなかったのだった。
ケムヨはまた部署に戻り、迷惑を掛けたことを皆の前で謝った。
全ての責任をケムヨが取ると断言もしていたこともあり、直接の被害もなく事なきを得たので結局は丸く収まったが、立て続けのケムヨの失敗には皆うんざり気味だった。
周りの目の冷たさに反比例してケムヨの体温が上昇していくが、同時に寒気を感じる。完全に風邪が体を支配していた。
それでもケムヨは最後までやり遂げる覚悟で、この後は意地になってもミスを犯すまいと頑張った。
その日はこれで終わったが、終わったとたん気が抜けてどっと熱が上がっていくのを感じる。
フラフラになりながら身支度をし、そして会社を出たとたん、そこに知ってる顔があって暫く立ち止まって見ていた。
「なんだよ、その目は。たまたま近くで用事があったから、会社ここだって言ってたからさ、もしかしたらここで会えるかなって通りかかったんだよ。そしたらほんとに会えるもんだな。しかしでっかい自社ビルだよな。さすがホシナコーポーレーション。一流企業だよ」
「ま、さ、ゆ、き」
ケムヨは一字一字気の抜けた声で名前を呼ぶ。
「どうしたんだ? なんかお疲れか?」
「疲れも何も…… へっくしょん」
「おい、風邪か?」
ケムヨは覇気のない笑みを見せ歩き出す。早く帰って寝たい。それしか頭になかった。
そこに派手に靴音をパタパタさせながら何かが寄って来る。
振り返ると留美と優香が近寄ってきていた。
「やだ、ケムヨさん、あの合コンの後、結局将之さんと付き合ってたんですか?」
留美が遠慮なく声を掛ける。
優香は背筋を伸ばし、すました笑顔を添えて気取り将之のことをじろじろ見ていた。
「そんな訳がないでしょ」
ケムヨが否定するも、将之は「そうなんです」と肯定する。
「えー? どっちなんですか?」
留美はおっとりとしながら首を傾げていた。
「あの、初めまして。合コンではお会いできませんでしたが、野々山優香と申します」
優香は自分をアピールすることを忘れない。自分の方が若くて美しいとばかりに自信に満ちたスマイルを添えていた。
将之は形ばかりに挨拶をするが、優香のことなど視界に入っていなかった。
「よかったら、今からみんなでご飯でも食べにいきませんか?」
優香が将之を見て誘う。もしかしたら奪えるかもしれないとそんな期待を添えて。
そして留美に「ねっ」と同意を求めていた。
留美も別にどっちでもよかったので適当に首を縦に振る。
「私はちょっと体調が悪いので遠慮する。将之は行ってきなよ」
ケムヨがそっけなく答える。
「それじゃ、俺もパスだ」
将之も全く興味がないとあっさりと答えると、優香は一瞬不機嫌な顔つきになる。それでもすぐに笑顔をみせて「残念です」とかわいらしい声を作って言った。
体調の悪いケムヨは挨拶をして先を急ぐと、将之が当然のように後をつけた。
二人の様子を見ながら、留美は上手く行くといいと願っていたが、優香は納得できないままケムヨを睨みつけているようだった。
「やっぱり悔しい。ケムヨさんですらあの合コンで男と知り合ったじゃない。しかもあんなにかっこいい人と。何が付き合ってないよ。先週の土曜日しっかりデートもしてたのよ。相手はあの人だと思う」
「えっ、そうなの? だけど優香、まだ合コンのこと拘ってるの? ケムヨさんは普段目立たないようにしてちょっと不気味なキャラだけどあの人頭も切れるしとても美人だよ。仕事だっていろんなこと幅広くできるし」
「だったら、なんでパートなのよ。それに今日はあんな失敗を沢山したのよ。大切な書類を捨てたり、給湯室を荒らしたり、注文数間違えたり」
「書類を捨てたのは何かの間違いだと思うけど、給湯室を荒らしたって何? それに注文数を間違えたりって、あの時ケムヨさんが書類見て慌ててたのはそういうことだったの? 私は後の二つは知らなかった。ケムヨさん今日はどうかしてたんだね」
「きっとこれからももっと失敗するわよ。だってパートでいい加減に仕事してるだけでしょ。会社だってあんなのいらないわよ」
「ちょっと、優香、一体何を言ってるの? ケムヨさん今まで失敗なんてしたところ見たことないけど、それに雑用でもいつも一生懸命仕事してる人よ」
留美はまた優香の八つ当たりが始まったと思った。気に入らないといつも愚痴をいうのは優香の悪い癖だった。
「あーあ、今日はいつもより早く出勤したから疲れた。さっさと帰って寝るわ」
留美はなんだか優香の言動が鼻につく。
ケムヨに対して敵意を持ってるようにも感じ、ただの八つ当たり的なことも酷さが増していってるように思えた。
ヤマアラシが棘を立てるような荒々しい姿の優香に、留美は訝しげな目つきを向けていた。
フラフラな状態ながらもケムヨが踏ん張って歩いている側で将之がひっきりに話しかけてくる。
それに構ってやれる余裕がなく、でも無視していると思われても嫌なのでぼーっとしながら適当に返事を返していた。
だから話の筋など何一つ追ってなかった。
「ほんとか、ほんとにいいのか?」
将之が確認取るように念を押して訊いている。
何の話かわからないまま、ケムヨは聞き返すのも面倒臭くなって「うん」と曖昧に返事をしてしまった。
「やった!」
将之が喜んでいる。なんで喜んでいるのか聞きなおすのも億劫でケムヨはそれでいいことにした。
思考能力はこの時全く働いていない。体がだるくてそうとう参っていた。
その時いきなり腕を引っ張られた。
「おい、気をつけろよ。赤だぜ」
交差点に差し掛かっていたのにも気がつかず、ケムヨは「あっ」と思いつつ、将之に引っ張られた反動で全ての持っていた力が抜けてしまい、ヘナヘナと崩れていった。
将之が咄嗟に抱きかかえる。
「ケムヨ、どうしたんだ?」
「だ、大丈夫……」
必死で体制を整えようとするが、フラフラし息まで荒くなっている姿に将之も慌ててしまう。
「おいっ、しっかりしろ」
将之は辺りを見回してタクシーを見つけ、ケムヨを支えながらそこへ向かった。