第五章


 街の明かりが灯る人通りのある場所まで来ると、ケムヨも少しほっと息をつく。
「将之、大丈夫? 怪我はない?」
「もう大丈夫だ。食べたばかりのときに腹を膝げりされると、痛みより気持ち悪くなってしまった」
「一体なんであんなことになってたのよ」
「店を出て歩いていたら向こうが勝手にぶつかってきたんだ。ぼーっとしてた俺がカモに見えたんだろうな。だけどああいうのはただの小遣い稼ぎだろ。何かと 因縁をつけて金を巻き上げる。それよりも、簡単に切り抜けられたことの方が不思議だ。あのチンピラなんかケムヨ見て焦ってたようにも見えたけど」
 ケムヨはやはりそう来たかと、落ち着いて対処する。
「あんな薄暗いところに髪の長い女がぬぼっと立ってたから、お化けみたいで気持ち悪かったんじゃないのかな。ほら、私こうやると、貞子だから」
 ケムヨは前髪を前にたらして、片目だけを髪の間から覗かせた。
 腰も屈めて体を震わせたので人通りのあるところで女性がそんなポーズを取ると将之は違う意味でぎょっとした。
「おい、やめろよ」
 ケムヨは姿勢を正しニコっとするも、しつこい将之はまだ表情を曇らしている。
「だけどあの時”アネサン”とか言ってなかったか?」
 何かを疑っているような腑に落ちない顔。
 ケムヨもとぼけに徹底するしかなかった。
「お嬢さんって呼ぶよりは年とってたから無難だったんじゃない?」
「でも、なんかすっきりしないな。あの状況じゃまるで……」
 ケムヨをじっと見つめ何かを疑った目を向けたが、ケムヨも覆いかぶさるように言葉をぶつけた。
「もう、切り抜けたんだからよかったじゃない。それより早く帰らないとプリンセスが餌待ってるかも」
「あっ、そうだプリンセスだ。中途半端に餌付けしている状態だから、もしかしたら半信半疑で待ってるかもな」
 ケムヨはさらりと交わすようにのらりくらり受け答えたので、将之にはなんだかはぐらかされたようでもあったが、同時にチンピラに絡まれた後ではケムヨを無事に家まで届けなければいけない使命感が湧き起こった。
 ケムヨも将之の前を歩き「早く帰ろう」とこのことにはこれ以上ふれないようにせかした。

 二人は車に乗り、ケムヨの家に向かう。
 辺りはすっかり暗くなり、ケムヨは車の窓から空を見ていた。
 高い建物が近くにありすぎて、空が見えるスペースが限られ充分に見えない。
 プラネタリウムで見た星空はこんなものではなかったと実際の空に文句を垂れるようにがっかりした目を向けていた。
 その夜空に輝く星も当然見難く、ガチャガチャとした街の明かりが夜を壊しているようだった。
 ケムヨはふと将之に話しかけた。
「暗いから夜が嫌いって将之は言ったよね」
「なんだ、急に?」
「都会の夜はそんなに暗くないなって思ったから、街の光に照らされた夜はどう思うのかなって」
「一番中途半端なのかもしれないな」
「どういうところが?」
「明るさも一時しのぎ。明るくしようとしても夜は結局変えられない。そして曖昧な光は夜の星を見えなくさせてしまう。無意味な街の光。虚しくて余計に悲しくなりそうだ」
「何に対して悲しくなるの? 星が見えないことに? 無意味な街の光に? それとも他に理由がある?」
「その全てだ」
「じゃあ、他の理由って具体的にいえば何?」
「そんな事聞いてどうするんだ?」
「別にどうするってこともないんだけど、プラネタリウムを見た後ではこの夜空に物足りなくてがっかりしてたの。夜ならもっと星を見てみたい。なんだか欲が でちゃって、それで私もこんな夜は残念なのかもって思うようになっちゃった。将之はどう思ってるんだろうってただの好奇心」
 将之は前を向いたままケムヨの言葉に静かに反応するかのように難しい顔つきになった。
「中途半端に夜を照らす光は、何かを誤魔化そうとずるく思えるかもしれないな。寂しいものに明るくデコレーションして真実を隠す」
「もしかしてそれ自分のこと?」
「なんでそうなるんだ?」
「だって、お兄さんの修二さんが、将之は本当は寂しがりやだけどそれを押し殺して演じてるって言ってたから」
「修ちゃん、そんなこと言ってたのか? 修ちゃんは気を遣いすぎて心配性のところがあるんだ。自分で勝手に想像してそうじゃないかって決め付けてしまうだけさ」
 将之は笑って一蹴していたが、瞳は真剣に前を捉え、言い当てられて困惑するような陰りが映っているようだった。
 ケムヨは将之の心の中をもっと覗きたいと思ったが、それ以上のことを質問するのを逡巡してしまう。
 なぜ将之の心の中を知りたくなってしまったのか。
 将之のことを深く知ったところで、一体自分はどうしたいのか。
 ケムヨは自分にはその資格はないと気がつき、今までの会話を流すように適当に相槌を打つ。
「修二さんっていいお兄さんだね」
「ああ、俺にはもったいないくらいのな」
 将之も修二もどこまでもお互いを尊重していた。
 こんなにも兄弟思いになれるものなのだろうか。
 一人っ子のケムヨには少し羨ましくもあった。
 会話はそこで途切れてしまい、暫く静かに将之は車を運転する。
 黙り込むことで露呈する何かを必死に抑えようとしているようにも見えた。
 一方でケムヨは暗くなりきれない夜を見つめ、将之が言ったことを頭に巡らしていた。
 自分も充分この街の夜のように本質を隠している。
 そう思うと将之が言ったようにこの夜が虚しく悲しく目に映っていた。
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