第五章


「お嬢様、お帰りなさいませ。でも、そこで何をなさってるのでしょうか」
 玄関でドアの開け閉めの音を聞いてシズが奥から出迎えに来た。ケムヨが身を隠すように窓から外を覗いてる姿に首を傾げる。
「えっ、ちょっと猫が来てるかなと思って様子を見てるの」
「そうですか。それで篠沢さんとはいかがお過ごされたのですか?」
「べ、別にこれといって何も。ちょっとどこかへ行ってご飯を一緒に食べただけ」
「そうですか。悪い方ではないようですので、ほどほどのお付き合いも宜しいかと思いますが、もし何か都合の悪いことでも起こりましたらと思いますと、シズは心配で」
「大丈夫よ。適当に相手してるだけだから。それに猫を捕獲したら、もうここには来ないと思うから安心して」
 ケムヨがニコッと笑うと、シズはそれ以上何も言うことはないと一礼をして静かに去っていく。
 ケムヨはもう一度窓を覗き、将之が居なくなったことを確かめてから自分の部屋に向かった。
 なんだか疲れたと部屋に入った後、後ろ向きでドアを閉めそのままもたれ掛かった。
 目を閉じれば、この日将之と一緒に過ごした事が映像を映し出すように浮かび上がる。
 久々に忘れていた淡いトキメキを味わった気分だった。
 悔しいけど、楽しかったと思わずにはいられない。
 だが、最後で抱き寄せられて迫られたことに非情に動揺してしまう。
 咄嗟とは言え、身動きできずにキスされるままの体制であった事が不覚だった。
 ケムヨは、手を口元に持っていき、息をはーっと吐いて匂いを確かめる。
 自分では分からないし、あの時将之からもニンニクの匂いはしなかった。
 それは自分が動転していたからなのかもしれない。
 将之の顔が目の前にちらつく。
 落ち着かず、蚊を追い払うようにバタバタと手で空中をはたきまくる。
 そんなことをしてなんになるというのだろうか。
 嫌だと体は拒否反応を起こした動作ができても、心臓はドキドキと激しく動いたままだった。
「こんなことで動揺してはだめ。もっと暗く地味にならなければ。私は表に立たない影の人間」
 自分の立場を再確認し続けた。
 いつまで将之はケムヨに付きまとうのだろうか。
 プリンセスを捕獲すればもうここに通うことはなくなる。
 そのためにも協力するしかない。
 それまでだのことだとケムヨは何度も言いきかしていた。

 その次の日の日曜日、ケムヨはペットショップに向かいキャットフードを買い込んだ。
 大量に餌をやればすぐに懐くと思ったが、あいにく午後から雨となり猫がやってきそうにも思えなかった。
 それでも夕方になると傘を差し、家と門の間の小さな庭のところでプリンセスを待っていた。
 雨脚は強くなり、傘を差していても風向きで雨が掛かってしまう。
 少し屋根がついてる玄関先のポーチも容赦なく横ぶりの雨が襲っていた。
 初夏の頃といっても、まだ気温の変化が激しくこの日は肌寒く感じるほどだった。
 どれぐらい待ったのだろうか。
 足元が水の中に浸かったように冷えていく。
 なぶりかかる雨の中、餌を外に放置することもできず、かといってもしかしたらプリンセスがやってくるかもと思うと家の中に入ることもできず、ケムヨはだんだんと意地になって雨の中いつまでも立っていた。
 シズが様子を見に来ては、家に入れと何度も催促する。
 仕舞いには交代するからとケムヨを家の中に入れようとシズも応戦するので無視できなくなってきた。
「この雨じゃ、猫もきませんよ。猫は水を嫌いますから。明日また沢山あげればよろしいじゃないですか」
 シズに優しく言われて、ケムヨもとうとう折れた。
 家に入る前にもう一度後ろを振り返る。雨音が暗闇から囁くように聞こえていた。
「仕方ないか」
 そのとき将之の笑顔が浮かんでくる。まるで良くやったと褒められたみたいな気がした。
 完全に将之のすることに巻き込まれている自分がおかしくなってしまい鼻でくすっと笑ってしまった。
 だが、足の冷えから背中にまで寒さが伝わって少し悪寒を感じると、何をやってるんだろうとその直後に我に返り苦笑いにもなってくる。
 これではいけないとケムヨはまた凛としてしっかりしようと背筋を伸ばす。
 ケムヨがコロコロと態度を変えている様子をシズは側で何も言わず見守っていた。

 翌日、喉の調子が悪く、痛みが伴う。
 これは風邪引きの前兆であり、ケムヨはしまったと思った。
 朝食に蜂蜜とレモンのお湯割りを作り対策をするも、喉の痛みが取れたときが熱が出たり鼻水が出たりしてくる。
 そうならないようにと願いながらそのままの体調で仕事に向かった。
 そしてパートの仕事にでかければいつも通りの日々が始まる予定だった。
 朝は掃除や在庫チェック、その他細々とした雑用をこなすのがケムヨの日課である。
 月曜日は皆だるさを思わせるように欠伸をしながら、それぞれ職場についている。
 のんびりとしながら段々とエンジンが暖められて仕事にとりかかっていくのだが、それがいつもと違い朝から部屋が騒がしい。
 大切な書類が失くなっていると男性社員が必死の形相で机の中をかき回して探していたからだった。
 自分の机の引き出しを探すのを諦め、回りの人間に知らないかと藁をも掴むように助けを求めだした。
 そして大きなゴミ袋を抱えているケムヨの前に立つと、間違って捨てたんじゃないかと疑ってきた。
 ケムヨはそれぞれのゴミ箱の中を一つの袋に集めてきれいにして回る。
 それはゴミ箱の中に入ってるものだから、すでにいらないと判断しているので常に中身を確かめているわけではない。
 この日の朝も、ゴミ袋にまとめた後だった。そしてちょうど捨てに行こうと手に持っていた。
 男性社員はケムヨの持っていたゴミ袋を引ったくり、それを逆さに持ってぶちまけた。
「あっ」
 あまりのことにケムヨは声をもらしたが、それで気が済むのならと諦め気味にため息を吐いていた。
 この中に入っているわけがない。大切な書類ならゴミ箱に捨てるはずがない。
 ところが男性社員が大きな声で「あった」と言った時にはケムヨは驚いた。
「なんだよ、やっぱり君が原因か」
 きつく睨み付けて吐き捨てるように声を浴びせた。
「私は、ゴミ箱に入ってたものをただ捨てただけで」
「この書類がゴミ箱に入るわけがないんだよ。確かに引き出しに入れて俺は保管していたんだ」
 男性社員は普段から真面目で管理を厳重にするのはケムヨも知っていた。
 なぜそれがゴミ箱に捨てられていたのか真意はわからないが、自分が集めたゴミの中に入ってたのは紛れもない事実だった。
 ケムヨは頭をさげ丁寧に謝罪した。こんな失敗は初めてのことだった。
 書類が無事に見つかったことで男性社員はそれ以上何もケムヨに言わなかった。
 周りのものもすでに忘れたというように自分の仕事に取り掛かる。
 留美が側に寄って来て、心配する眼差しを向け小さく「がんばろう」と気遣って声を掛けてきたのには救われた。
 ケムヨも「ありがとうと」とお礼を言ったが、その時喉が細かく切り刻まれたような痛みを伴い、その不快さが心の本音を現していたかもしれない。
 しかしケムヨの失敗はそれだけでは終わらなかった。
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