第六章 意地っ張りのまま無意識に頼ってしまった


 タクシーの後部座席で、ケムヨは将之の肩にもたれながら身を寄せて朦朧としていた。
 熱が上昇してきているのか、体が時々縮むように震えている。
 将之はケムヨのか弱い部分を見せ付けられるようで、支えてやりたいと思わず手を握ってしまう。
「しっかりしろよ。もうすぐ家だからな」
 表向きは心配しているだけに見えたかもしれないが、将之が握る手にはその他の感情がプラスされていた。
 ケムヨも朦朧としながら手を握り返してしまった。
 苦しくて何かに八つ当たりたいという力を入れ込んでしまう気張った感情と、弱ってるときは楽になりたいと言う気持ちが混じり、将之に手を握られていてもよくわかってなかったかもしれない。
 最後までお互い手を握り合ったままケムヨの家に来てしまった。
 将之がケムヨを支えてタクシーを降りると、少し離れたところからプリンセスが様子を伺っていた。
 前足をピタッと揃え礼儀正しく座っているプリンセスと将之は、お互い目が合ってしまう。
「後でちゃんと餌やるから待ってろよ」
 将之はとりあえず声を掛け、門を開けて中へと入っていく。
 それをプリンセスはじっと無表情で見ていた。
 ドアをノックするとシズが現れ、将之にもたれ掛かりながら顔を赤くして殆ど眠っている状態のケムヨの姿に驚いた。
「お、お嬢様、一体どうなされたのですか」
「えっ? お嬢様?」
 将之はシズの言葉に違和感を持つも、シズが取り乱していたので、深く考えられずとにかく部屋に運ぶことに専念する。
 シズがベッドを整えている間、将之は少しでも手伝おうとケムヨの上着を脱がせていた。
「あっ、それは私が」
 シズが慌てて、ケムヨを奪うように引ったくり将之に部屋から出るようにと「こほん」と喉を鳴らして催促する。
 将之はシズの気迫に負けて、たじたじと後ずさり部屋の外へと出て行った。
 静かにドアを閉め頭を掻きながら、廊下でどうすればいいものかとその場に突っ立ったままいると、ゲンジが様子を伺うようにそっと将之に近づいてきた。
「あのー」
 声を掛けられ将之はドキッとして振り向く。
 ゲンジは頭を下げて礼をしたので、将之も慌てて体制を立て直して同じように礼を返す。
「一体どうしたんですか?」
 ゲンジが訊いてきたので、将之は経緯を説明する。
「それはそれはお世話になりました」
 ゲンジが丁寧に挨拶するが、それはここの管理人以上の態度だと将之は感じていた。
 ここがアパートと言ってるにしろ、下宿方式なのかもしれないが、ここまで管理人がケムヨを身内のように接していることにどこか違和感を感じる。
 シズが『お嬢様』と呼んだだけに、どう見てもこの家の主人はケムヨに思えてならない。
「ここは他に誰か住んでいるんですか?」
 将之はつい辺りを見回して聞いてしまう。
「なぜそのようなことを?」
 反対にゲンジに質問されてしまった。
「いえ、そのいいところなので、自分も住んでみたいなあなんて思ってしまいまして。部屋は他にも空いてるんですか?」
 咄嗟に見え透いた嘘が口から出ていた。
 それを見抜いたようにゲンジは薄ら笑いを微かに口元に乗せて答えた。
「そうですか。私もシズも雇われ管理人なんですけどね、この家のオーナーはかなり偏屈な方でして、人を住まわせるのも気まぐれなんですよ」
「見掛けは汚いのに、中はゴージャスなのもわざとなんですか?」
「そう思われても仕方がないんですけど、見掛けは本来のままの姿で手を加えたくないというお気持ちがあるからだと思います。中だけは住めるようにとリフォームしております」
「家賃はどれくらいなんでしょうか?」
「さあ、それもオーナーが決められることでして、私どもはこの建物の管理をするようにと住みこみで雇われているだけですので分かりかねます」
 ゲンジはその後も、この建物の掃除をしたり、時々オーナーの客人が旅館代わりに泊まりに来たりするときにもてなす係りであったり、近所付き合いや奉仕活動に参加したりすることを命じられていると淡々と説明していた。
 穏やかに物腰低く話し込む姿は主に仕える執事を連想させる。見かけも初老だが殆ど白髪状態の薄くなった髪を七三に分けて気品が備わっていた。
 シズもそうだが、いつ来ても着物を着ている。
 古風と上品が重なり合ってこの建物に二人はふさわしい。
 ゲンジの話からすればオーナーは金持ちに違いない。
 シズがケムヨを『お嬢様』と呼ぶのはオーナーと何か関係があるのではないだろうか。
 ついそれが将之の口をついて出た。
「それじゃケムヨはそのオーナーの親戚ってところなんじゃないですか?」
 将之の質問にゲンジは一瞬声を詰まらせたが、すぐに落ち着いた表情を向けた。
「私も詳しいことはわからないのですが、何かしらの事情があってここに住まわれているとは思います」
 ニコッと笑ってはいたが、妙に将之を見つめる目が鋭くなった。
 将之はもっと色々質問したかったが、その時シズが部屋から出てきて話の腰を折られた。
「あなた、ちょうどよかった。室井先生に連絡入れて往診できるか聞いてもらえませんか?」
「ああ、分かった」
 ゲンジは将之に一礼してどこかへと行ってしまった。
「篠沢さん、ご迷惑をお掛けしてすみませんでした」
 シズは丁寧に頭を下げる。
「いえ、それでケムヨは大丈夫でしょうか」
「風邪だと思うんですが、熱があるみたいですのでちょっと安心はできません。昨晩雨の中をずっと立ってたのがいけなかったんです」
「雨の中をずっと立っていたんですか? どうして?」
「いえ、別にその、ちょっと用事があったってことで…… とにかく熱を冷ます用意をしなければいけませんので、ちょっと失礼します」
 シズは忙しいとばかりにバタバタと去っていった。
 将之はじっと考えて「まさか」とふと声が出ていた。
 ケムヨの部屋を覗き見するように、そっとドアを開け中の様子を伺う。
 ベッドに顔を赤くして横たわるケムヨをあまりみてはいけないと思いつつも、足はもうすでに部屋に入ってしまっていた。
 そっと近づいて、ケムヨの顔を上から眺める。
「お前さ、もしかして猫に餌をやろうとして雨の中に立ってたのか? 俺がそう頼んだから意地になってプリンセスが来るのをずっと待ってたんじゃないだろうな」
 そう問いかけてもケムヨは眠りに陥っていて何も答えなかった。
 将之はケムヨの頬に優しく触れ「すまなかったな」と謝った。
 その時、薄っすらとケムヨの目が開く。
「ん? 将之?」
「大丈夫か?」
「うん、ありがと」
「なんだかしおらしいな。普段もそうだったらいいのに」
「何よ」
 弱弱しい声になりながらも、意地を張ろうとする姿はやはりケムヨらしいと励ますつもりで頭を撫ぜてやった。
 それが妙に心地よく、ケムヨはまた目を閉じて寝むりについていく。
「早く元気になってくれよ」
 将之は暫くケムヨの寝顔を優しく包み込むように見つめていた。
 シズがお手玉を大きくしたような氷嚢を抱えて部屋に入ってくると、将之はベッドの側を離れ後ろに下がった。
 氷嚢をケムヨの額に乗せ、シズは心配そうな顔をしてじっと覗き込んでいた。
「それじゃ、俺はこれで失礼します。あまり役に立ちそうなことはできませんが、それでも何か出来る事がありましたらご連絡下さい」
 シズに名刺を渡し、将之は静かに部屋を出て行った。
 シズは名刺を手にして呟いた。
「篠沢将之…… いい方なのはわかってるんですけど、笑美子お嬢様は一般の女性ではないですからね」
 ふっと悲しげに息を漏らしていた。
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