第六章

10
 暫くして、シズがトレイに料理を乗せてケムヨの部屋まで運んでくる。
 その料理はプロそのものので見た目がいい。
「うわ、すごい。料理屋に来たみたいだ」
 思わず将之は口から出ていた。
「シズさん、ありがとうございます。残り物でよかったのに」
「私も暇ですから、これくらいどってことありません。あの、私の夫もちょっとお薦めしたいものがあると言うんですけど」
「ゲンジさんが? なんでしょう」
 ケムヨが首を傾げていると、シズは後ろを向いて呼び寄せた。
 開いていたドアから、ゲンジが顔を出すと礼儀正しく礼をした。ゲンジもトレイを持っている。
 「失礼します」と言うとともに腰を低くしながら中に入り、床に膝をつくとケムヨの前にワインのボトルを差し出した。
「これは?」
「頂きものなんですが、宜しければ飲んで下さい」
 ケムヨはそのボトルを手に取り、はっとした。
「ゲンジさん、このワインは……」
 ケムヨが何かをいいかけようとしたが、ゲンジはグラスとボトルオープーナーをテーブルに置き、その後はにこりと笑顔を見せて静かに去っていった。
「さあ篠沢さん、どうぞご遠慮なくお召し上がり下さい」
 シズは言葉を掛けると、将之は頭を下げてかしこまる。
 シズもまた微笑んで去っていった。
 ケムヨはワインボトルをじっと見つめて何か考え事をしている。
「どうした? そのワインどうかしたのか?」
 つい気を取られて将之にまたいらぬ詮索をされるのを恐れ、ケムヨは無理に笑顔を向けた。
「これ開けられる?」
「ああ、ワインくらい開けられるよ」
 ケムヨはワインを将之に渡す。
「これはフランスのワインか。あまりワインの銘柄については詳しくないけど、このラベルはメルヘンチックでかわいいな。子供が描くような絵で味がある。それでいて芸術らしさもあり、なんか懐かしい感じがする」
「味はどうなんだろうね。フランス産だからと言って美味しいとは限らない」
 ケムヨは厳しい目でそのワインを見ていた。
 ワインは、軽やかなポンという音と共に開けられ、それを将之がグラスに注ぐ。
 注がれたワインは照明の光でルビーのような輝きを持った赤色に見えた。
 将之は一つをケムヨに渡し、もう一つを手にとってケムヨのグラスに軽くぶつけた。
 その後は匂いを嗅ぎ、そして一口含む。
「うん、いいワインだ。香りもバラの花を嗅ぐような感じで、味も滑らかで口当たりが柔らかい。それが暫く持続する。美味しいよ」
 将之の評価を聞いてケムヨも飲んでみた。
 ワインの味には詳しくないが、少し甘みが感じられて飲みやすく確かに美味しかった。
 しかし何も言わず、手に持っていたワイングラスを揺らして中の液体を見つめていた。
「いいね、こうやってワイングラスを片手にケムヨと一緒に過ごすのって。俺のマンションさ、少し広めのバルコニーがついてるんだ。そこで夜空の星を眺めながら、ワイングラスを片手に一緒に飲むってのはどうだ?」
「…… うん」
 ケムヨは半分うわの空できいていたためにいい加減に答えていた。
「そっか。じゃあ、金曜日の夜そうしよう。決まりだ」
 だがケムヨはまだワインに気を取られて反応しなかった。
「おいっ、ケムヨ? どうしたんだ? なんかぼーっとして。とにかくワインの話はそれでいいよな」
 ケムヨははっとするが、ワインについて話していると思って、また適当に答えてしまう。
「えっ? ああ、わかった」
 将之はいい返事が聞けたと嬉しそうに微笑を返し、機嫌よくワインを飲む。
 ケムヨはその笑顔にとにかく合わせていたが、何を話していたのだろうかと思いながらまたワインを飲んだ。
 とにかくこのワインでケムヨの注意が分散されて、自分が約束したことが重大なことだというのを全く認識していなかった。
 
 ワインは二人で全部飲みきってしまった。その頃になると料理も食べ切り、夜も9時を過ぎていた。
「俺、そろそろ帰るよ。今日はすっかりご馳走になっちまった。すごく美味しかった。ありがとう」
 結構な酒を飲んだというのに、アルコール度が弱かったのかそれとも将之がアルコールに強いのか、全くと言っていいほど将之は酔っていなかった。しっかりと立ち上がる。
 ケムヨの方は少し頬が赤くなっていた。将之を見送ろうと立ち上がったとき、なんだかふわふわした感覚を覚えた。
 しかし、ケムヨも我を忘れるくらいには酔ってはいない。
 だがテーブルに足が当たって蹴躓いたとき、ボトルが揺れて倒れそうになって慌ててしまい、それが一度にバランスを崩すきっかけとなってふらつく。
「おい、大丈夫か」
 将之がケムヨの腕を握り、同時にもう片方の手でボトルを押さえた。
「ああ、ごめん」
 ケムヨは謝るが、目線はボトルに向いたままだった。そしてケムヨの瞳が潤んでいる。
「おい、どうしたんだ? 酔っ払って泣き上戸か?」
「なんでこんなワインで酔うのよ! 足ぶつけて痛かったのよ」
「わかった、わかった。とにかくご馳走様」
 ケムヨがじっとまだワインボトルを見つめている間、将之はドアを開け廊下に出ているところだった。
 そしてシズの声も聞こえると、ケムヨもはっとして後を追いかけた。
 将之は丁寧にシズにお礼と述べ、そして玄関で靴を履いてからケムヨにも「ありがとう」と言って出て行った。
 将之が帰った後、シズはケムヨの部屋に入って後片付けをする。
「シズさん、私がします。本当にすみませんでした」
「いいえ、いいんですよ。だけど篠沢さんのお口に合ったでしょうか」
 それは問題ないとケムヨは美味しかったことを伝える。シズは嬉しそうに微笑み、全てのお皿をさげて部屋から出ようとしていた。
「あの……」
 ケムヨが声を出す。
 シズが振り返り、何が言いたいのか分かってると言わんばかりにケムヨを優しく見つめていた。
 ケムヨがその後を言い難そうにしていたのを見て声を掛ける。
「ワイン、美味しかったですか?」
「悔しいけど、美味しかったです」
「それはよかったです」
「あの、それで父と母は戻ってくるんですか?」
「きっと、沢山ワインを抱えて戻ってこられるでしょうね」
 シズは静かに微笑んで、そして頭を下げて出て行った。
 テーブルの上にワインボトルだけ片付けられずに置かれていた。
 そのワインボトルはまるで何かを語るように置き去りにされたようだった。
 ケムヨはそれを手にして暫くラベルを見つめていた。
inserted by FC2 system