第六章


 一晩寝るとケムヨの熱は下がったが、体がやけに消耗していてだるさを感じていた。
 無理しても起き上がり、本業の仕事に出勤しようとしているところにシズが止めにきて、再びベッドに寝かされた。
「今日はお休みすると旦那様にも連絡を入れておりますので、どうかゆっくり寝ていて下さい。体調を崩されたのは私の責任でもありますし、これ以上悪くなられては旦那様に叱られます」
 祖父のことを引き合いにだされると、絶対的存在なためにそれに逆らえないシズが気の毒となりケムヨは言うことを聞いてしまう。
「おじいちゃん怒ってた?」
 恐々と聞いてみるが、シズは首を横に振ってニコッと微笑んだ。
「大丈夫です。でも心配されておりました。早くよくなってから復帰するようにとのことでした」
「そんな言葉が出たときが怖いのよ。絶対後で無理難題を吹っかけてくるのがあの人のやり方だから」
「とにかく、無理をしないで下さい。このシズのためにも」
「わかりました」
 ケムヨは大きくため息を吐き、ベッドの中で大人しくすることを承諾した。
 この日はベッドで寝たまま本を読んだり、眠くなれば自然にうとうとしたりと病人らしく過ごす。
 食事もシズが部屋まで運んでくれて、ケムヨがベッドから出るときはトイレに行くときだけだった。
 ゆっくりするのは退屈であったが、午後三時を過ぎた頃、ドアをノックする音が聞こえた。
「はい、どうぞ」とシズと思って気軽に声を掛けたが、ドアが開いたとき「えっ!」と声を上げて驚いた。
「熱は下がったか?」
「将之、なんでこんな時間にあんたが現れるのよ」
「へへ、ケーキ持ってきた。お見舞い」
 ケーキの箱を目の前に掲げる。
 後ろには心配そうにシズが待機していた。
 シズも度々現れる将之にどうしていいのかわからず、なすがまま状態だった。
 将之の物怖じしない動作に圧倒され、将之はケムヨの部屋に入り込み椅子を勝手に拝借して側で座り込む。
 後にシズがお茶を用意して、将之の持ってきたケーキでティータイムの時間となった。
 ケムヨも慣れた状態になってしまって、ベッドから体を起こして将之と向き合いケーキを遠慮なく食べる。
 黙々とケーキにフォークを刺しながら口にもっていく食べ方は半分ヤケクソだったかもしれない。
 将之はティーカップを持ち、ケムヨを見つめて微笑みながら優雅にお茶を飲んでいる。
「仕事はどうしたのよ?」
「営業って言えば途中で抜け出せる」
「いい加減なのね」
「いいじゃないか。ケムヨが心配だったんだから。これでも昼過ぎてからしか抜けられなくてそれまで気が気でなかったんだから。熱出したの俺のせいだろ」
「えっ、なんでそうなるのよ。将之には関係ないわよ。自分で健康管理ができなかっただけ」
 将之はそれ以上何も聞かなかった。
 ただ一言「すまなかった」と目を伏せ目がちに謝ってそして紅茶を口に含んでいた。
 理由を理解して素直に謝ってくる将之が面映くて、ケムヨは残りのケーキを黙って食べだした。
「ケーキ、美味いか? 甘いもの好きかどうかわかんなかったけど、ちょっとふらっとこの店が目についたんだ。衝動買い」
「ありがとう。ケーキは大好き」
 ケムヨは口を尖らせながら、正直に感想を述べるのを躊躇いがちに答えた。
 しつこい奴だが、心配して気を遣ってくれているところは将之の優しいところなのはわかっている。
 だが素直に認められないのは自分のプライドなのかもしれない。それとも意識しているのだろうか。
 ケムヨは将之にじっと見つめられると自分でも何をしてるかわからなくなってくる。
 間を繋ぐように将之は微笑んだ。
 その笑顔の影にはどこかたくらみがあるようで、前日に熱が出て朦朧としていたとき、この男につい弱みを見せてしまったことがこの時になって悔やまれてくる。
「それにしても昨日は、熱が出てたとはいえ、俺を頼ってくれて嬉しかった」
 やはりそう来たか。
「意識不明で覚えてない」
「意識不明ってことはないだろう。朦朧とはしてたけど。でもいいんだぜ、これからは俺に堂々と頼ってくれて」
「お断りします」
「本当のところ、照れて正直になれないんだろう」
 将之は鼻で笑っている。その自信たっぷりな笑顔にケムヨは言い返す気力もなかった。
「元気になったらまたどこかへ行こう。今度は本当の天の川を見に行かないか?」
「一体天の川を見にどこまで行くのよ?」
「そうだな、かなり高い山の頂上かな。そこで寝っころがって星を見ながら一夜を過ごす」
「なんで、そんなところで将之と一夜を過ごさなければならないのよ」
「なかなかロマンティックじゃないか」
「口で言うだけならね。虫は居るだろうし、第一そんなところでトイレはどうするのよ」
「誰も居なければその辺でいいじゃないか。自然に返って」
「そんなの絶対嫌!」
「わかったわかった、そこまで言うのなら、ホテルで宿泊しよう」
「アホか! もっと嫌でしょうが!」
 いつの間にかまた言い争いになっていた。
「よかった。またいつものケムヨに戻った。それだけ元気があればもう大丈夫」
 将之はティーカップに残っていたお茶を全て飲み干し、それを側にあったベッドサイドのテーブルに置いた。
「さてと、俺はこれで帰るよ。プリンセスも待ってるだろうし。俺が車でここに来たのがわかったのか、この時間でも現れたんだぜ」
「早く捕まえて連れて帰りなさいよ」
「それがさ、プリンセスにボーイフレンドが居るみたいなんだ。引き裂いていいものかちょっと迷う」
「そのボーイフレンドも一緒に捕獲すればいいじゃない」
「首輪つけてたから、そいつには飼い主がいるんだよ。プリンセスももしかしたら飼い主がいるのかな。わかんなくなってきた」
「ということは、当分はここに通うということ?」
「うん。そういうこと」
 明るくにっこりと笑顔を向けた。
 将之は立ち上がり「それじゃ、またな」とドアに手をかけた。
「あっ、その来てくれてありがとう。ケーキも美味しかった」
 慌てて礼を述べるケムヨの言葉に将之は白い歯を見せて爽やかに笑った。
 なんだかその笑顔がケムヨを元気にしてくれる。
 ケムヨの口元も無意識に上向きになっていた。
 そして将之が静かに部屋を出て行くのをケムヨはドアが閉まる最後まで目で追った。
 その後は将之が飲んでいたティーカップに視線が移り、暫く見つめていると将之のことを気にしている自分にはっとした。
 最後は呆れを通り過ごして、慣れきってしまっている自分に笑えてきた。
「将之……」
 自然と名前が口から漏れていた。
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