第七章


「シズさんが、上がれって言ってくれたから」
 将之がお茶の湯飲みを手にしたまま答えると、シズも補足するように自分の責任でそうしたと説明する。
「篠沢さんね、昨日のお礼だっていいもの頂いちゃって」
 シズが嬉しそうに紙切れを二枚ひらひらさせてケムヨに見せた。
 何かのお芝居のチケットだった。
「仕事柄、こういうイベントのチケットは手に入れやすくて、今話題の実力の俳優も出てるし、気晴らしにご夫婦でどうかなって思ってね」
 お茶を軽くすすり、将之は答えていた。
 「それはよかったわね」としかケムヨは言えなかった。
 偶然なのか、それとも知っていてやっていることなのか、その芝居にはシズが好きな俳優が出ていた。
 それだけでシズは浮かれていた。
 こうやって将之は周りも飼いならしていく。
 自分も疾うにそうされたようで、大きなため息を一つ吐いていた。
「さてと、それじゃ俺はこれで失礼するよ。こう何度もお邪魔してたらやはりご迷惑だしね」
「そんなことないですよ」
 それを言ったのはシズだった。
 チケットがよほどストライクだったのか、シズは将之を気に入ってしまった。
 将之も喜んでもらえるのは嬉しいと素直に笑っている。そこには裏表のない澄んだあどけない目があった。
 ケムヨはその目につい釘付けになってしまった。
 将之がこんなに優しく笑う姿はいつまでも目に焼きつく。
 ケムヨがじっと見ていると、将之が立ち上がったとき目が合って慌ててしまう。
「プリンセスには餌やったの?」
 誤魔化すように聞いた。
「ああ、やったよ」
 プリンセスの話題になったので、シズも口を挟んだ。
「あの猫、近所の方にも飼い主のこと聞いてみたんですけど、やっぱり野良猫ですって。この辺の方々も見かけたら時々餌をやってるとかいってました」
「そっか、近所で世話になってるんだな。俺が引き取ったら寂しくならないかな」
「野良猫にそこまで情が湧いてないわよ」
「いつも当たり前だったものが目の前から消えると寂しく思うぞ。ケムヨだって俺が急に居なくなったらそうだろ」
「えっ、そ、それは、却ってせいせいするわよ」
 粋がってみたが、この日確かに家に戻ってきたとき、いつもの黒い影を見なかったのは少し寂しかった。
 それを悟られないように、目を逸らすが将之は見抜いてるような笑みを浮かべていた。

 玄関で将之が靴を履き終わると、ケムヨの方を向いてニカッと白い歯を見せて笑う。
「さあてと、俺も今日は今から家の掃除だ」
「ふーん。遅くからするのね」
「そりゃ少しでもきれいにしておきたいからね。それじゃまた明日」
「はいはい」
 プリンセスの餌やりと思っていたからケムヨはあっさりと返事していたが、次の日は金曜日であり、その日の夜、将之の家で星空を見る約束をしているなど全然覚えてない。
 気楽に手まで振って別れを告げていた。
 将之が去った後、シズが言い難そうに明日の予定の確認をしてきた。
「お嬢様、先日の私がお願いした付き添いの話ですけど、明日でほんとに宜しいですか? まだ病み上がりですし、無理にお休みを取って頂いてるだけにシズは心苦しいです」
「何言ってるの、前もってその日と約束してたし、それに風邪は少し鼻がまだぐずってるけど体調は全く問題ありません。それにシズさんも急な買い物なんでしょ。私に見立てて欲しいって、一体何を見立てればいいのでしょう?」
「えっ、それはその、かなり難しいものでして、私には全く分からない代物で、とにかく明日現場へ行けばわかります」
「現場?」
 シズは額から汗が出るように焦っている様子を見て、ケムヨはおかしなことがあるものだと、よほどの問題を抱えていると思ってその時は気にしなかった。
inserted by FC2 system