第七章


 ハルトとの美術館のデートは、落ち着いて、難なく事が終わった感じだった。
 これが将之だったら、からかいながら見ては時々絵の中の人物をまねて自分がアートのフリをするんじゃないだろうかとケムヨは想像する。
「笑美子さん、また何か考え事ですか?」
 美術館の隣にあった公園を少し歩いているとき、ハルトが声を掛けてきた。
 ケムヨはまたやってしまったと頭をブンブンと横に振って苦笑いになっていた。
「いえ、その、私妄想癖がありまして。なにせオタクなんです」
 こうなったらカミングアウトだと、ケムヨは開き直る。
 自分の制服好きなことも絵を描くことも、そして空想にふけって頭の中で勝手にストーリーを作ることも全て暴露する。
「そうですか。それなら私もオタクですよ。私は戦闘機やタンクといったものが好きで、そういうの結構詳しいです。人には何かしら好きなことがあります。それを追求することは皆オタクじゃないでしょうか」
「そうかもしれませんね」
 ハルトと話すとどこまでも気品が伴ってオタクの話ですら上品に聞こえる。
 ケムヨも真似をしようと知らずと背筋を伸ばしてみたが、歩き方がぎこちなくなっていた。

 その後は軽くドライブをして、家まで送ってくれた。
 夕方だが日が長くなってまだ辺りは明るく、夕方の弱々しい光が寂れた家を一層古臭く見せていた。
 ハルトの運転する車がケムヨの家の前で止まると、ハルトは不思議そうに家の外見を見ていた。
「ここが笑美子さんのお住まいですか?」
「ええ、あの、その、見掛けはアレなんですけど、一応中は人が住めるようになってるんです」
 初めて家を見る人にはどう説明していいものかと苦笑いになってしまう。
 その戸惑った調子で、ケムヨはお茶でも誘った方がいいのかと次の流れをどうしたものかとまごついてた。 
 ハルトがケムヨの顔を見つめていたので、社交辞令程度にそれを口に出そうとしたとき、ハルトはシートベルトを素早く外し、いきなりケムヨの手を握って自らの体を近づけた。
 不意をつかれ、ケムヨはびっくりしてフリーズしてしまった。
「笑美子さん、今日はとても楽しかったです。今度は制服着てお会いしてもいいんですよ。私のことを真剣に考えて貰えませんか?」
「制服…… ですか。それは興味がそそられますが、やはり私はあの、その、申し訳ございませんが……」
 ケムヨは穏便に断っているつもりだった。
 ハルトの理解を得ようと、彼の顔を見てぎこちない笑いをむけた。
「笑美子さん……」
 意外にもハルトは積極的だった。顔をさらに寄せてキスを迫ってきた。
 ケムヨは突然のことにびっくりして体を反らすが、シートベルトしたままで身動きが取れない。
 その時、ボンネットにポンと何かが飛び乗った。プリンセスだった。そのお陰でハルトの気がそちらにそれた。
 ケムヨも握られていた手を振り切り、シートベルトを外して急いで車から降りた。
「あっ、笑美子さん」
「ごめんなさい。やはりあの、私は結婚については考えられません」
 そう言ってドアを閉め、急いで家に逃げていく。
 ハルトも慌てて車から降りたが、ケムヨは最後くるりと振り返り、「ありがとうございました」と早口で礼を言ってお辞儀をすると家の中へするっと入っていった。
 それこそあっと言う間の出来事で、ハルトはもうそれ以上追いかける事ができなくなった。
 そしてボンネットに座って顔を洗っていた猫に「しっし」と手で追い払って八つ当たりしてしまう。
「おい、プリンセスに失礼だろうが」
「ん? プリンセス?」
 ハルトが振り返ると、将之がそこに立っていた。
「あっ、あんたあの時の追いかけていた男」
 ハルトが声を出すと、将之は「ん?」と首をかしげマジマジとハルトの顔を見つめた。
「あっ、あんたはホテルのボーイじゃないか。なぜケムヨと一緒にいたんだ」
 将之も思い出した。
「ふーん、やっぱりあんたはしつこく彼女を追いかけているのか」
「えっ? しつこく彼女を追いかけてる? なんであんたにそんな事言われないといけないんだよ。そういうボーイさんはどうしてケムヨと知り合いなんだよ」
 この時将之はホテルで振袖の女を追いかけ、そこでこのボーイと出会ったんだったと思い出し、どこかその出来事が引っかかっていたが、そのことを深く考えている暇がなかった。
 ハルトが挑戦的な目を向けて睨んできたために、将之もそれに負けたくないと睨み返して応戦する。
 突然散った火花。それはプリンセスも顔を洗っていた手を止めるほど気になった。
「それは別にあなたには関係ありません。それにあなたは私ほど、彼女のこと、いえ『ケ・ム・ヨ』さんのことあまりご存知じゃないみたいですね」
「どういう意味だよ。それならボーイさんは俺よりも知っているっていうのか」
「はい。少なくともあなたよりは存じております」
 ハルトはにやりと笑い、どこかあざけ笑っている。
 将之はバカにされたようでムッとしてしまった。
 ハルトの対応はあくまでも穏やかだが、自分の知らないことを知っているとそれを優越感として捉えているように思えた。
「別に今は知らなくても、これから知っていくからいい。それにボーイさんはなんだかケムヨに振られたみたいに見えたけど」
 できるだけ嫌味っぽく、将之は応酬した。
 これには羞恥心が湧き起こり、ハルトがカチンときた。
「いつから私達のことを見ていたんですか」
「ボーイさんが車の中でケムヨに迫ったときから見てたよ」
 将之がここに来たとき、すでに家の前に車が止まっていたので、少し離れたところに駐車する羽目となった。
 そして車から降りて近寄れば、車の中の二人の様子が見えたために身を隠して暫く様子を伺っていたという訳だった。
 ケムヨが上手い具合に切り抜けて家の中に入ったので安心したが、そんな行動を取る男が他に居ると知って今度は嫉妬が芽生えてしまった。
 だからつい見逃せずにプリンセスをだしにして声を掛けてしまった。
「そうですか。見られていたのでは弁解の余地はありません。だけど、あなたこそ彼女の手の負える男ではなさそうだ」
「どういう意味だよ」
 ハルトはもう落ち着いた態度ではいられなくなる。いくら爽やかな笑顔でお客に対応できる能力を持っていても、心に湧き出た醜い感情が邪魔をする。
 ハルトは将之に嫌がらせをしたくなった。
「あなたは彼女がどういう人か分かっていらっしゃらない。彼女は一般の身分ではありません」
 このとき将之はハルトの言葉に好奇心を鷲づかみにされた。思わず聞き入ってしまう。
「彼女は裏側の顔を持っているんですよ。それもかなりとてつもない大きな組織のね」
「とてつもない大きな組織?」
 ハルトはいい気味だと厭らしい笑みを添えた。
 はっきり言いたかったが、それをしてしまうと自分に責任がかかってくる。
 自分も身分を隠して親の作り上げた元で働いているだけに、秘密をばらされるのはいいことではないとどこかでストッパーがかかった。
 それなら将之が勝手に自分で解釈するようにもっていけば、万が一ばれたとしても自分は何も言ってないと言い切る事ができる。
 だから曖昧に、そして将之がケムヨを諦めるようにと頭を働かせていた。
「彼女と付き合うということは、そういうことも含めて全てを受け入れるということ。あなたにはできますか? 彼女のバックグラウンドはあなたの手には負えな い大きなものがあるということです。それはそれは普通の人なら足を踏み入れる事ができないような領域。真実を知ればあなたは恐れをなして絶対逃げ出します よ」
 意味深にハルトは芝居がかった台詞を投げかけた。
 これで充分脅しを与えたと思い、後は自分で想像しろと話を途中で止めて車に乗り込む。
 バタンとドアが閉まるとプリンセスも慌ててボンネットから飛び降りた。
 そして安全な高いところへ飛び移り、そこでまた振り返って二人の様子を伺っていた。
 将之は事の真相をはっきりさせたいと車に近寄り、窓に顔を寄せた。
「おい、どういうことだよ。もっと詳しく教えろよ」
 将之が車の窓を叩くがハルトは知ったこっちゃないとエンジンを掛け、車がゆっくり動き出すと将之は危険を感じて後ろに下がった。
 その間に車は走り去ってしまった。
 将之は暫く呆然となってそこに立ち竦んでいた。
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