第八章


 それはほんの一瞬のことだったのかもしれない。
 しかしとても長く感じる瞬間でもあった。
 将之の唇がケムヨの唇と重なっていた。
 なぜ自分の口に柔らかい感触があるのか咄嗟のことにケムヨは混乱してしまう。
 唇に触れた柔らかさと反対にケムヨの体は石のように硬くなって動けなくなっていた。
 それがキスだと気がついたとき、ケムヨは身を引いて後ろに反れた。
 そして反動で立ち上がり、喉の奥から息が漏れるような声にならない音を発している。
「驚かないって言ったじゃないか」
 将之は弁解するように言った。
 ケムヨは不意を突かれたことでなんだか悔しくなって感情が高ぶり目が潤んできた。
 何度か息を吸って吐いた後、やっと声が戻ってくる。
「そうは言ったけど、でもそれは言葉のことであって、だれがキスされても驚かないって言ったのよ」
「俺、我慢できなかったんだ。ケムヨが悪いんだ。俺をその気にさせたから」
「なんで私のせいなのよ」
「ケムヨが素敵だからさ。俺、ほんとに好きなんだ。ケムヨがどんな立場であれ、俺はケムヨが好きだ。だから、もう俺の前では何も隠さなくていいから」
 将之は真実を知って受け入れているんだと知らせているつもりだった。
「将之、どうしたの? もしかして酔ってる?」
「酔ってなんかない」
 真剣さが伝わらないと苛立ち、将之はついムキになって勢いつけて立ち上がってしまった。
 その時、ケムヨは怖くなってしまい、体が怯み逃げの体制になってしまう。
「そろそろ下に下りなくっちゃ。ゲンジさんが来る」
 ケムヨは玄関に向かった。
「ケムヨ、ちょっと待てよ。なんで逃げるんだよ。無理やりキスしたのは謝るから、俺を避けるのは止めてくれ。俺、ちゃんと分かって……」
 将之の言葉は最後まで続けられなかった。ケムヨは遮るようにその言葉を跳ね除ける。
「もういい。将之が謝ることなんてない。とにかく今日はありがとう」
 ケムヨは慌てて靴を履き、そしてお辞儀をして出て行った。
「ケムヨ、待ってくれ。俺の話もちゃんと聞いてくれ」
 将之は履物も履かずに慌てて後を追いかける。
 ケムヨは部屋を出てすぐ目の前にあったエレベーターの前に立ち、体を震わせていた。
「ケムヨ、怒ってるのか?」
 ケムヨは背中を見せたまま、将之と顔を合わせることなく会話する。
「怒ってるんじゃないの。たかがキス位でこの年になって慌てると思う?」
「じゃあ、どうしたんだよ」
「悔しいの。やっぱり自分は女だったんだって思わされたのが。将之が立ち上がったとき咄嗟に怖いって思ったの。将之の前ではいつのまにか女になってた自分が許せないの」
「なんでそう思うんだよ」
「もう付き纏わないで。これ以上将之といると私には都合が悪い」
「だから言ったじゃないか、俺の前では何も隠さなくていいって。それに俺が守ってやる。地の果てまで一緒に行ってやる。俺はケムヨのことちゃんと分かって……」
 また将之が肝心な部分を話そうとしている最中にエレベーターがやってきて、ドアが開いた。
 ケムヨは機敏にそれに乗り込んでそこでやっと将之の顔を見ると、その目は酷く冷たく寂しく将之を捉えた。
 将之はその目に不安にさせられ、言葉を失ってしまう。こんなにケムヨを失望させてしまった罪悪感が息をも止めさせた。
「将之、ごめん」
 そしてドアは静かに閉まっていった。
「ケムヨ」
 将之は一人その場に取り残されて自分の軽率な行動を悔やむ。ケムヨが抱えていた問題は将之が理解したところで、本人には簡単にそれで済まされるものじゃないことを改めて感じさせられた。
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