第八章
3
エレベーターのような狭い空間の中、惨めな気持ちで一人ポツンと居て下へと下がっていくと、自分も堕ちて行く錯覚に囚われる。
ケムヨは将之になぜあのような態度をとってしまったのか。
キスはただのきっかけに過ぎなかった。
ケムヨはそこまで将之に心を許して、将之に抱かれていた好意を結局は受け入れていたことに気がついた。
自分は二度と恋などしない、している暇などないと思っていた。
全てのものを流すように受け入れて、過酷なものを背負い、時には命を張って立ち向かう覚悟をしていた。
だから、以前チンピラに真っ向から向かっていけたのも、恐怖心など持たずに自分の信念を貫く心構えがあったからだった。
だが、それがすっかり崩れている。
将之の前では心情を吐露して、そして将之に頼るように手を繋いで星空を見ていた自分が間違っていたとあのキスで思い知らされた。
将之が急に立ち上がったとき、怖いと思ったのは、将之を男としてみていた自分がいたからだった。
あのまま将之と一緒に過ごせばいつか自分は将之に──。
ケムヨはそうなることを恐れた。
そして将之を自分が背負っている事柄に巻き込みたくない。
将之もまたどこかで変わってしまう。
ケムヨは自分の本来の姿を取り戻そうとぐっと足を踏ん張り、そして背筋を伸ばした。
「私は情け無用でなければならない」
エレベーターを降りたとき、自分に言い聞かせて、そして外に歩いていった。
ゲンジが運転する車が来たのはそれから暫くしてだったが、その間、ケムヨはずっと将之のマンションを見上げていた。
あの天辺で宇宙を想像しながら星を見たことを思い出していた。
ああやって自分と共通のものを一緒に分かち合ったことは、過去に出会ったマサキと一緒に絵を描いたことを思い出させた。
マサキ、将之。
一字違いなこともあり、どこかオーバーラップしてしまう。
あの時もケムヨは心の安らぎを得て、そしてマサキとずっと絵を描いていたいと思っていた。
将之と夜空を見上げたときに感じた安らぎも同じようにそんな風に思っていたんだと、この時になってあの思いがそう位置づけられる。
だから、キスをされたとき目が覚めた。
子供の頃の時もマサキと一緒に遊ぶことを反対されたのは、空想の中へ逃げる場所を作るなという祖父の教えだったかもしれない。
自分の空想の世界を分かち合える相手が側にいたら、それに甘えてしまい自分が強くなれないと祖父は畏怖していたのだろう。
ケムヨに課せられたものは過酷で厳しい世界であり、祖父はケムヨが子供であろうとも容赦なく人間の心の醜さを隠しもせずに教えてきた。
人の心の中を見ることが習慣となってはいたが、ケムヨもしっかりと祖父の教えを受け継いできたつもりでいた。
そんなときに今度は翔と出会い、恋すると言うことを知った。
その恋をして、ケムヨは痛い思いを味わった。恋が全てを狂わして本来の事柄を見えなくしてしまった。
それに懲りていたはずなのに、またケムヨはそれを繰り返す寸前にいた。
「もう星空も見ている暇がないかもしれない」
ケムヨは見納めだというように夜空を仰いだ。
将之に手を握られていた感触が蘇り、ぐっと体に力を込めて振り切った。
そしてゲンジの車が現れた。
ケムヨはそれに乗り込んで自分の場所へと帰っていった。
将之はバルコニーに出て、夜空を見ていた。
さっきまで届きそうな位置にあった星が、すっかり軌道を離れていってしまった。
ケムヨがなぜあんな行動をとったのか将之には全て理解できない。
そのせいで追いかけることもできなかった。
自分が理解していない事柄をどうやって相手に説得させる事ができるんだと、あのまま追いかけてもケムヨは一層心を閉ざすことだけは容易に想像できた。
「ケムヨは女じゃないか。なぜ女である自分が許せないなんて思う必要があるんだ。俺はケムヨを守れないってことなのか? どうしたらケムヨは俺の存在を認めてくれるんだ」
ケムヨの抱えている問題もわかっているのに、それを受け入れているというのに、自分がどんな事があっても側に居ると意思表示しても、ケムヨは耳を傾けない。
それでも将之は諦めたくなかった。
折角見つけた心に灯る光を消したくない。暗闇の中でも充分に照らしてくれるその灯りを失いたくなかった。