第八章


 次の日の土曜日。
 この日は休みという事もあり、ケムヨは昼近くまで寝てしまった。
 前夜は色々と考えて眠れず、睡眠時間がずれてしまう。
 体も心なしか重い。
 鈍い頭をすっきりとさせようとコーヒーを求め、パジャマのまま引きずったようにキッチンに向かった。
「おはようございます、お嬢様。なんだかお疲れのようですが」
 シズがケムヨの顔を見るなり、コーヒーの準備に取り掛かった。
「おはようございます。自分でやりますから、気にしないで下さい」
 ケムヨはシズが取り出したコーヒー豆を取り、自分で豆を挽く。
「お嬢様、昨日篠沢さんと何かあったんですか?」
「いえ、別に」
 ケムヨはキスされた事がすぐに頭によぎった。
 それを払うように、コーヒーミルを回す速度が速まる。
 シズは一瞬にして読み取り、何があったか詳しくは訊かないがそれとなく将之の話題を振った。
「篠沢さんって、若いのにしっかりされた方ですね。あの年頃でしたら、自分のことしか考えられないでしょうに、彼は何かと人の目を気にして奥底まで考えていらっしゃる」
「あのしつこい男がそこまで考えているとは思えないわ」
「積極的な部分もおありですが、シズの目から見ましたら、あれは一生懸命になられる証拠なんです。他の人なら諦めるところを篠沢さんは途中で投げ出さないお方なんですよ」
「度を過ぎればストーカーにもなってしまう危険な性格だと思います」
「いえ、彼の場合そこはちゃんとわきまえていらっしゃいますよ。彼はわざわざ理由を作ってお嬢様の前に現れる。隠れてこそこそなどしておられません」
「シズさん、なんだか将之の肩を持ってるみたい。この間行きたかったお芝居のチケットをもらったから悪く言えなくなったんでしょ」
「そうですね、確かにアレは心を鷲づかみにされました。でも、それ以上に私はどうしても篠沢さんを応援したくなるんです。あの方はお嬢様がどのような立場であれ、真のお嬢様のお姿だけを見ていらっしゃる。私はそんな気がするのです」
「でも、私がどういう立場の人間か分かったら、きっと将之は変わってしまう」
「いいえ、それはございません」
 シズはきっぱりと言い切った。そして続けた。
「篠沢さんはなんとなくお嬢様がどういうご身分かもう分かっておられるんじゃないでしょうか。その上で彼は接していらっしゃるのではと私は思ってしまいます」
「えっ、将之がもうすでに知っている? まさか」
 ケムヨの手が止まった。何かを考えている様子にシズはそっーとしておこうと側を離れる口実を作った。
「あら、もうこんな時間。お嬢様、午後は夫と出かけますので、後は宜しくお願いします」
「は、はい」
 シズが静かに去っていった。
 ケムヨはコーヒーミルのハンドルを握ったまま、キッチンのカウンターでじっと立っていた。
 自分の身分がばれているということは考えてもみなかった。
 まさかと思いながら、ふと将之が言った言葉を思い出した。
 『もう俺の前では何も隠さなくていい』
 あの時は、意地を張るな、素直になれと言われたと思っていたが、もし将之が何もかも知ってて言った言葉なら──。
 それでもケムヨは否定する。
 そんなことがあるはずない。
 ケムヨはまるで意固地になるように一心不乱にコーヒー豆を挽いていた。

 その日の午後は誰も居ない屋敷の中、静けさがとても居心地悪く感じた。
 静寂な中では、じっとしていると要らぬ事を考えてしまい、前日のことも、将之のこともつい頭に浮かぶ。
 ケムヨは気分を紛らわそうとデスクにつきスケッチブックを開いた。
 絵を描いて自分の世界に逃げ込めば忘れられる──。
 だがいつまでも手は鉛筆を握ったままだった。
 ため息を一つ吐いたその時、現実に目を向けろといわれたかのようにドアベルが家の中で響いた。
 ドキッとしたと同時に、それは将之が来たのではと思わずにいられない。
 このまま居留守を決め込もうと無視をしてみたが、何度も喧しくドアベルは鳴り響き、最後はドアをノックする音も聞こえた。
 ケムヨはとうとう無視できずに、玄関に向かい覚悟を決めてドアを開けた。
 そしてそこに立っていた人物に驚いてしまった。
 自分の好きなアレが突然目に飛び込んできたからだった。
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