第八章


 ケムヨはドアの反対側で、胸を押さえ込み激しく息をしていた。
 将之と翔が表で何か言い争う声が篭って聞こえてくる。
 二人はまだその場から去ろうとしない雰囲気が伝わってきた。
 翔が海外勤務から戻ってくると聞かされていたが、会う時は会社の中だと思っていただけに、まさか本人が家まで会いに来るなんて寝耳に水だった。
 そのせいであまりにも驚き過ぎて、冷静さなど吹っ飛んでしまうほど正常な状態になれなかった。
 あれから三年もの月日が流れていても、ケムヨの心には翔という存在が強く残っていたことを思い知らされた。
 過去のことは何も清算されずにそのままの状態で保管していた自分にかなり動揺してしまう。
 強くなれたと思っていたのに、この三年間何も成長していなかったと、悔しさも溢れだしてきた。
 どうしようもない思い。
 まだ自分の中で決着などついてなかった。
 このままでは、自分は逃げてるだけにしか過ぎない。
 自分の問題も片付けられないものが、この先どうやって祖父の後を継ぐ事ができるのか。
 ケムヨはじっくりと考える。
 とにかく、まずは自分が落ち着く事が先決だと何度も深呼吸して精神統一を試みようとした。
 ケムヨが静かに息を整えているとき、表の将之と翔の会話が聞こえてくる。
 それはしっかりと耳に入って来た。

 表では将之が翔にきつい睨みを浴びせていた。
 翔は途中から薄ら笑いを浮かべて少し大人な対応を試みた。
「そうだな、先客がいたのに割り込んでしまってすまなかったな」
「言葉は謝っているけど、態度は全然って感じだな。まあいいけど、あんたもしかしてケムヨの前の彼氏ってところか? でも振ったんじゃないかったのか? それが今になってまたやり直したいって、あまりにも勝手すぎる。ケムヨが怒るのも無理ないな」
「ふん、憶測だけで一体何が分かるって言うんだ。真実も知らないくせにそっちこそ勝手に話を作るな。そういうお前は誰なんだよ」
 翔の言葉を聞いてケムヨの眉間に皺が寄せられた。
 確かにケムヨは翔の浮気現場を見て、翔はあの女性と会っていることを否定せずに認め、翔に振られたのは事実である。
 しかし、翔の言葉はそれを認めていない。
 そこがとても引っかかった。
 次に将之が話した。
「俺は、もちろんケムヨの彼氏に決まってるだろ」
 これにもケムヨは顔を歪ませた。
 友達になるとは言ったが、彼氏と呼べる程の仲ではない。
 二人とも何をそんなに嘘をつく。
 ケムヨは我慢できずにドアを開けてしまった。

「あっ、ケムヨ」
「ケムヨっ!」
 将之も翔も驚いていた。
「ちょっと、さっきから聞いていたら、なんか真実と違うんだけど。将之、なんであなたが私の彼氏なのよ」
「えっ、俺達付き合ってるじゃないか」
「いつそんな話になってるのよ」
「だって、ケムヨが熱でて倒れかける前、俺ちゃんと言ったぞ、俺達正式に付き合おうって。そしたらケムヨは『うん』って言ったじゃないか。その後も俺が何度も『ほんとか、ほんとにいいのか?』って確かめたらまた『うん』っていったじゃないか」
「えっ? うそ」
 ケムヨはあの時のことを思い出そうと考えてみた。
 そういえば倒れる前に将之は『やった!』と声をあげて喜んでいたことを思い出す。
 なぜ喜んでいるのか聞くのも億劫だったからそのままにしていたが、まさかそれがこのことだったと思い当たると急に顔から血の気が引いた。
「ちょっと、待って、あれは無し。私、熱が出て朦朧としてたし、将之が何を言ったかしっかりと聞いてなくて適当に返事しただけだから」
「おい、それはないだろ。俺は付き合ってるって思ったから、そのつもりでケムヨに接近してそれで昨日あんなことになっちまった」
 突然だと思っていた将之の行動にはちゃんと過程があった。
 将之は付き合ってると思ってその上で近づいてきていた訳で、ケムヨだけが知らなかった。
 ケムヨは完全な自分のミスだと、とんでもないことをしでかしたことにうろたえる。
「おい、ケムヨは間違いだったって言ってるじゃないか。それは無効だ」
 翔が落ち着いて口を挟んだ。
「あんたは関係ないだろ。あんたこそケムヨを振った癖に、今更何を考えて戻ってきたんだよ」
 将之は放っておいてくれと喧嘩腰に言ってしまう。
 翔はそんな将之の言葉を無視して、ケムヨと向かい合った。
「ケムヨ、とにかくもう一度話し合いたい。俺は自分が間違ってたのは充分分かっている。ほんとにあれは魔がさした。それは弁解しない。だが、俺も被害者なんだ」
「何が被害者だよ。その話じゃ、あんた浮気したんだろ。そしてケムヨを捨てたって感じだね」
 将之が茶々を入れるが、ケムヨは翔の話が聞き捨てならない。
「被害者ってどういう意味よ?」
「ここでは言いにくい。二人だけで話せないか?」
 翔は真剣な目を向けてケムヨに訴える。
 将之はうっとうしいと、殴りたい気持ちを抑えるのに必死だった。
「わかった。そうよね。私達結局何も話し合いしてなかった。私も逃げてしまったし、翔はあの後すぐに海外へ転勤が決まってすっきりしない終わり方だった。しっかり話し合ってお互いすっきりした方がいいと思う」
 ケムヨはぐっと力を込めて、翔を家の中に招き入れる。
 翔は少し安堵の色を見せた微笑を浮かべ、話し合える機会を喜んだ。
「ケムヨ、ちょっと待ってくれよ。俺との話はどうなるんだよ」
「将之、ごめん。またそれは今度しっかりと謝る。だからちょっと今日は遠慮して」
「ケムヨ……」
 すっかり仲間はずれにされて、将之だけ中に入れてもらえずにドアを閉められた。
 将之は拗ねてつい地面を蹴ってしまった。
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