第九章

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「すまないけど、今日は俺の代わりにプリンセスに餌やっててくれないか。それから少しこれから忙しくなりそうなんで、俺が来ないときはプリンセスの面倒頼む。落ち着いたらすぐ捕獲しにいくから」
 帰り際に将之に言われた言葉だった。
 ケムヨは以前買った猫用の皿にキャットフードを入れ、玄関先にしゃがんでコトリと置いた。
 プリンセスは屋敷の敷地を自分のテリトリーと完全に思い、遠慮もせずに我が物顔ですでに出入りしている。
 目の前に置かれた餌も、まるで自分を崇拝する家来からの貢物と感じてるかのように、皿に頭を突っ込んで豪快に食べだした。
「プリンセスはここで住み着いているようなものね。わざわざ将之のあのマンションに行かなくてもいいのかも」
 プリンセスが居なくなれば将之もここへ来る理由がない。
 その後は将之とどうなってしまうのだろうとふとケムヨは考えた。
『なあ、ケムヨ。俺さ、随分無理をしていたかもしれない。だけど本当はとても心の弱い人間なんだ。もう虚勢を張るのはやめるよ。だけど少し時間が欲しい。だから翔さんと寄りを戻すなんてすぐには言わないで欲しいんだ』
 あの時言われた言葉が蘇る。
 あの時は曲の音量が高く聞き取りにくいこともあって深く考えなかったが、無理をしていたというところがこの時になって引っかかった。
 心の弱い人間、虚 勢を張るのはやめると言ったのはずっとそうしていたってことなのかと考えると、拘りを持ったどこまでもしつこいあの性格はわざとだったってことになる。
 ケムヨも翔を好きになっていたときを考えれば、本来の自分の姿を押し殺して将之と同じ事をやっていた。
 背伸びをしていたということなのだろうか。
 そう考えると、カラオケで過ごしたときの将之は確かに雰囲気がどこか違ったように見えた。
 一体なぜ急にそうなってしまったのか。
 これも結局は将之の戦略なのか。ついつい深読みをしてしまう。
『俺、必ずケムヨを救ってやるからな』
 しかし、将之は合コンで出会ってからこの言葉に執着している。
「一体私を何から救おうというのだろう」
 ケムヨはそっとプリンセスの体を撫ぜた。
 それにもお構い無しに、プリンセスは黙々と食べている。
 次いつ纏まった餌が貰えるかわからないから必死で食べている様子に見えた。
「プリンセス、大丈夫。ここに来る限り私が餌あげるから。その後は将之が居心地のいい場所に連れて行ってくれるからね」
 偶然なのか、プリンセスが顔を上げて「ニャー」と短く返事するように鳴いた。
 プリンセスも結局は将之が迎えに来るのを待っているよう思えてならない。
 猫ですら将之と係わってそんな思いを持つならば、自分は一体将之にどんな影響を受けてしまったのだろうか。
 ケムヨもまたつい考えてしまった。
 あのとき優しく笑った将之の笑顔を思い出し、ケムヨは夕暮れの空を見つめ星を探していた。

「なあ、修ちゃん、どういう感じがいいと思う?」
 将之のマンションで、ある資料を見せながら将之が聞いた。
 修二はケムヨの父親が置いていったワインを飲んでいて将之の言葉には上の空だった。
「おい、修ちゃんってば」
「えっ、ああ、このワイン上手い」
「違うでしょ」
「だけどこれケムヨさんの親父さんが作ったワインだろ? しかもフランスで。ワイン職人としてフランスで働いているのか?」
「その割には本人曰く、親が逃げて捨てられたとか言ってたけど、まあ堅気の商売につきたかったってことで、日本よりも海外の方が干渉受けずに安全ってことなのかな」
「でもさ、ケムヨさんの親父さんを説得して後を継いでもらうのが一番いい方法だと思うけど」
「それもそうなんだけど、俺としてはこっちも捨てがたいんだ。だから協力してくれっていってるじゃないか」
「はいはい」
 修二は資料を手に取り、色々見ては感想を述べていく。
「そういえば、母さんが将之の彼女のこと気にしてた。居るんだったら連れて来いって。吟味してやるとかなんとか。あれは嫉妬も入ってるな」
「また修ちゃんが余計な情報吹き込んだんだろ」
「将之は篠沢家の跡取りだから、どんな人がお嫁さんになるのか気になるんだろ」
「だから違うって言ってんだろ。跡取りは修ちゃんじゃないか。俺は次男なんだから」
「いや、長男も次男も関係ないって。しっかりした方がやるべきだ。将之遠慮することないんだぞ」
 この話題になると将之は辟易する。
 どこまでも修二は逃げ腰で、弟を立てようとして自分を卑下する。
「だから、篠沢家の跡取りは修ちゃんだってば」
 ムキになって言い切っても修二は笑ってるだけだった。
 修二はいつも優しく、常に将之を立てる。
 だから一度も二人は喧嘩などした事がない。
 将之が怒りそうになっても修二がいつもその前にすぐに折れるから、将之も怒りそうになる前に水を掛けられて火が消えてしまうという状態だった。
 本当にいい兄ではあるのだが、将之としてはしっかりして欲しいと少し不満気味なところがあった。
 その時、修二の携帯が鳴り出した。
 修二がそれを取り、話をしている最中にオッケーのサインを将之に向かって指で示して知らせる。電話を切ったあと、ニヤニヤして将之と向かい合った。
「あの話、喜んで協力してくれるだと。あとは都合のいい日に来て詳しいことを教えて欲しいって」
「だけど、その情報間違ってないよな」
「ああ、これは確かだ」
「しかしそこまでする必要があるのかどうか」
「ある! これでケムヨさんはお前にイチコロだ。夏生さんからも確認済みだし、彼女も将之の味方みたいだったぜ。さあ忙しくなるな。とにかくお前はそっちに力を入れろ。ケムヨさんの気を引く事が一番の課題だろ」
「うん、わかった」
 床の上には沢山の資料とこれからやろうと計画を立てている材料が散らばっていた。
 それを見ながら二人は真剣に語り合っていた。
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