第九章


 次の日の日曜日、一晩寝ればすっきりとなるかと思っていたが、気分は全く晴れずケムヨは助けを求めるかのように夏生に電話する。
 正直に前日に起こったことを説明すると夏生はすぐに事情を察して、ショッピングに行こうとケムヨを外に連れ出すために誘った。
 夏生と過ごすのも久し振りなこともあり、買い物で気分が紛れるかもしれないと思うとケムヨもすぐに承諾していた。
 美味しいものを食べ、好きなものを買う。
 気分転換には一番手っ取り早い方法だった。
 机の上には涙が沁み込んだままのスケッチブックがそのまま置かれていたが、涙の染みがついた部分を切り取り、くしゃくしゃにして側にあったゴミ箱に捨てた。
「新しいスケッチブック買わなくっちゃ」
 残り少ないページをパラパラとめくりケムヨは呟いた。
 前夜はつい感情的になったが、新たに進むしかないという覚悟でもあった。
 そして出かけるための身支度に取り掛かった。

 前日にすっきりしない気持ちを抱えていたのはケムヨだけではない。
 翔も将之もこの先をどうするかと思案しながら日曜日を迎えていた。
 翔は帰国後間もないために時差ぼけと戦いながらも、新居の準備とすぐに本社へ戻って仕事をする段取りのために慌しくなっていた。
 ケムヨの事が気になりながらも、落ち着いて取り組むためにもまず片付けなくてはならないことを優先させる。
 この先は会社でケムヨと会うことも約束されていると思うと焦る気持ちはなかった。
 まずは地盤を固める事が先決だった。

 将之も闇雲にケムヨにしつこく付き纏うのはさすがに気が引け、ここはぐっと抑えて珍しく作戦を練る。
 それには兄の助けが必要なこともあり、実家に戻ることにした。
 将之は自立したいと親の会社に就職後はすぐに家を出たが、兄の修二は高級住宅地に当てはまるような閑静な住宅街に両親と住んでいる。
 母親にとったら本当は修二の方に出て行ってもらって将之は側に置いておきたいほどだった。
 だから将之が実家に帰ってきたときは母の和子は嬉しくてたまらない。
 この日も突然の将之の実家訪問に喜んでいた。
「あら、まー君じゃないの」
「お母さん、ただいま」
「帰ってくるなら予め連絡くれたらよかったのに。そしたら美味しいもの一杯買っておけたのに」
「そんな特別なことでもないでしょ。ところで修ちゃんはいる?」
 将之は玄関で靴を脱ぎ、家に上がる。
「修二なら二階でまだ寝てるわよ。どうせ昨晩夜遅くまで絵を描いてたんでしょ」
「そっか、起こすの悪いな」
「何言ってるのよ、こんな時間まで寝てる方が悪いわよ。お父さんなんて日曜日だと言うのに仕事の接待で出かけてるのよ。一緒について行かなければならない立場なのにあの調子なんだから」
「そっか、お父さんも休みなのに大変だな。なんで俺に言ってくれなかったんだろう」
「まー君は普段からしっかり仕事してるし、これ以上働かせたら悪いと思ったからよ。ところでちゃんと栄養とってるの? なんだか元気ないように見えるわよ」
「お母さんはすぐに俺を病気にしたがるな。昔から心配しすぎなんだよ」
「だって大切な息子なんですもの。心配しちゃだめかしら」
「ありがと、お母さん」
 将之が笑顔で感謝の意を述べると、和子は嬉しさのあまりに抱きつく。
 和子はどちらかというと肝っ玉母さん風である。体もふくよかで、年中ダイエットといいながら痩せられないタイプだった。
 社長夫人というよりも一般のそこらへんの主婦のように庶民的な雰囲気がして、ずばっと言いたいことをいうきついところもあるが、基本は曲がった事が嫌いなさっぱりとした性格でもある。
 母親としては慈愛に満ちて将之を可愛がり、それは長男の修二以上に猫かわいがりしていた。
 容姿も頭脳も弟の将之の方が兄よりも優れていたので、母親としてはどうしても将之の方に愛情を注いでしまいがちだった。
 それは誰が見ても露骨に分かる態度なので、将之の方が必要とされている事は修二にも百も承知だった。
 だが修二はそれに対して異論はない。
 将之のお陰で好きな事ができ、口うるさい母親の干渉を受けずに気が楽で却って感謝していると言った節がある。
 父親と言えば、家族で一番物静かな人物なので何も文句言わずに黙々と必要なことだけをこなすような人だった。
 修二と将之のことも分け隔てなく接しているが、どちらかといえば将之には気を遣うところがあった。
 会社が発展した背景に将之の力が大きく貢献したというのもその中の一つの理由だった。
 そんな両親も兄も含め将之は自分の家族が大好きだった。
 だけど唯一つだけ欠点があるとしたら、あまりにも自分が恵まれすぎているということかもしれないと思っていた。
 贅沢な悩みなのかもしれないが上手く行き過ぎていることが、将之には陰となって心を曇らすところがあった。
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