序章


 青い夜の日は決まって月が白く冷たく輝く。
 真珠のように美しく、いや、月の輝きの方が簡単に手に入れられないだけもっと高貴で美しい。
 透明で冷ややかな淡い光はまっすぐに心に届いて突き刺すよう。
 暗くなればなるほど、それはただ輝く。
 どんなに手をかざしても決して熱くはならない。
 さらさらとした煌めく白い粉のように、どこまでも手から零れ落ちる。
 私はそれをよく知っている。
 誰よりも詳しく──
 この月の光は誰のもの。
 それを見つめているのは私だけじゃない。
 私はそれを知ってても何も言えない。
 冷たい月の光のシャワー。
 私は一人の傍観者のように、それを味わう。
 傍で誰かが私を見ているとわかっていながら……
「呑気でいられるもんだ」
 思った通り、頭上から声が響いた。
 だけど私は無視をする。
「俺が声を掛けても、びくともしない。余程の強者だなお前は」
 バサバサとした音と共に、風が私の髪をなびかせ、それが地上に降りてきた。
 彼の背中の黒い翼が、月の光で怪しく艶を帯びていた。
 鋭い猛禽のような目つき、だがそれは力強くて美しく、見るものを魅了する。
 完璧に整った麗しい容姿で、私を優しく見ていた。
「久しぶりね、ハイド」
 私が無表情に見つめ返せば、口の片隅を少し上げ、嘲笑うような虚しさに変わった。
 暫く黙っていたが、ハイドは諦めて、私に屈服する。
「はいはい、わかってますよ。さて、俺は君をなんて呼べばいい?」
「ナナでいいわ」
「ナナ?」
「そうよ、名無しのナナよ」
「そんな簡単に決めていいのか? 悲しくないのか?」
「悲しい訳ないじゃない。それともあなたが悲しいの?」
「そうだな。俺は君を見れば常に悲しくなる」
「でも、私がでてくれば、それは期待に変わる……」
「さあ、どうかな」
「まあ、ゆっくりと見てればいいんじゃないの。また真理が恋をしたわ。しかも、親友の好きな人をね」
「そっか。真理が恋をね」
「あら、嬉しくないの? それがどういう意味か分かってるんでしょ」
「わかってるが、あまりいい気はしないのも事実だ」
「辛いわね、ハイドも。でも、真理を応援してやれば? そうすればマリアは帰ってくるかも」
「マリアか。真理の姉だったよな、確か?」
「さあ、姉か妹かは私にはわからない。どっちでも同じよ。だって顔がそっくりなんだから。双子…… だからね」
「双子って、お前が言ってもね…… だけど、顔は同じでも、性格は全く違う」
 ハイドが、月明かりの儚さと、かわらないくらいの溜息を、細く吐いた。
「本当はどっちも好きだから、辛いのよね。そしてその真理が恋をした。応援すれば、心の片隅で矛盾を感じる。まるでマリアが他の男に取られるみたいで」
「ナナは容赦がないな。俺の痛い所をついてくる」
「当たり前よ。私はあなたたちとはなんの関係もないんだから」
「だけど、しっかりと俺を助けてくれる存在にはなってる」
「そう思うのはあなたの自由よ。まさか、私にまで気があるの?」
「そうだと言ったら、俺は浮気者になるのか?」
「言っとくけど、私はあなたに興味はないわ。あなたの事が好きでたまらないのは、マリア、ただ一人。あなたに恋焦がれてるわ」
「それじゃ俺はマリアに会えるのを楽しみにしておくしかない」
「ええ、その日は近いと思うわ」
「じゃあ、これを渡しておくか」
 ハイドは私に白い塊を手渡した。
 それはざらついてごつごつしているが、美しいパールの光沢を帯びていた。
「月の光を固めて作ったのね。まるで道端で子供たちが落書きをして遊ぶチョークの石みたい」
「チョークか。えらく安っぽいものの例えに聞こえる。まあいい。好きに噂を流せば、価値のあるものになるだろう。使い方は君に任せるよ。その魔力の力は知ってるだろ?」
「ええ、そうね、夢が叶えられるってとこかしら」
「せいぜい、好きにやってくれ、ナナ」
「わかったわ」
 ハイドが宙に飛び立とうとしたその瞬間、大きく黒い羽根が力強くひらかれた。
 大地を蹴って、軽々と空を舞うハイドは月を背景にシルエットとなる。
「ナナ、俺はお前もやっぱり好きだぜ」
 空の上から叫んだハイドの声に、私は笑わずにはいられない。
「浮気者……」
 私はこれから始まる歪んでしまった恋の行方と、その紡がれる愛の物語に、少しだけ身震いする。
 青い月夜を眺め、ハイドの空を舞う姿を見えなくなるまで目で追っていた。
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