第一章
3
紫絵里が優介の隣の席を得てから、優介は時々紫絵里と真理と休み時間を過ごすようになった。
真理はいつも遠慮がちに紫絵里の傍に寄って、二人が楽しく会話をしているのをぼんやりと眺める。
優介の話は面白いので、笑わずにはいられないときは、真理も素直に声を出して笑ったりしているが、自分から話しかけることはなかった。
常に紫絵里が中に入って、媒介する形で真理は優介と言葉を少し交わしていた。
時折り、目を合わせようとする優介の視線を恥ずかしそうに受け止めてはいるものの、その度に真理は落ち着かず、ドキドキとしてしまう。
紫絵里はそんな真理の感情に見て見ぬをふりを決め込み、真理の前では自
分の優位の立場を強調するように、一層優介との会話に弾んでいた。
暫くそんな日々が過ぎた、ある日の体育の時間。
バスケットの試合中、紫絵里は敵味方関係なく集中的に人とぶつかる事が多かった。
「邪魔よ、このクズ」
「調子に乗り過ぎ、ブス」
すれ違いざまに棘のある言葉が次々吐かれていく。
挙句には味方からパスされたボールなのに、ドッジボールのように体に当てられていた。
「ちょっと、しっかり受け止めてよ」
愚痴が飛び、周りはいい気味だと嘲笑う。
異様な雰囲気に包まれたそのバスケットの試合は、明らかに紫絵里を攻撃していた。
しかし、馬鹿にされて黙っている紫絵里ではなかった。
いざボールを手にすると、負けたくない根性ですぐさまゴールを目指して、ボールを投げた。
ボールは抵抗なく、吸い込まれるようにリングの中に入り、運が強い紫絵里は、上手くシュートを決め点数を加算した。
そして馬鹿にする女子たちの顔を鋭い目つきで見返した。
自分だけが他の女子とは違う自信を得た顔つき、それは優介の隣の席を手にしたときから、顕著に紫絵里の顔に現れていた。
それを傍で見ている真理は、とても辛く、そして悲しい。
安らぎを得られぬまま、常に体が何かに引っ張られていく不快感を抱き、いつも心がざわついていた。
その根本的な理由は何かと聞かれれば、真理ははっきりとまだその答えを見つけられないでいた。
紫絵里の事が心配でたまらないのか、それとも意地悪をする女の子たちの感情に同意してしまうのか、とにかくもやもやと曖昧に包まれて息苦しくなっていた。
少し意地を張った気の強さがある紫絵里だが、いい友達には変わりない。
優介が絡んでくると、大切なものを守ろうとした過度の防衛が、少し不快感をもたらす。
それは本能的なものに過ぎないから真理は理解しようとしていた。
だから、この時も紫絵里の傍に精一杯寄り添い、自分だけは味方だといいたげに心配する目を向けた。
クラスの女の子たちから意地悪をされ、それに刃向っていた紫絵里の表情は幾分か和らぎ、口元が少し上向きになった。
また教室へ戻れば、優介の隣の席に座り、優介はしゃべりかけてくる。
いじめを受けようが、僻んでくる女子たちが却ってかわいそうだと見下す事で、紫絵里の自尊心は満たされていった。
優介はクラスの女の子たちの事情も知らず、隣の席にいる紫絵里と仲良く話をする。
何がそんなに話が合うのか不思議なくらい、優介は紫絵里にいつも話しかけていた。
そして、また月の変わり目に席替えが催された。
紫絵里がもっとも恐れていた日でもあった。
優介と席が離れれば、気軽に話せなくなってしまう。
一ヶ月間は楽しく優介と過ごせたが、それ以上の発展は何もなかった。
心の底では優介が自分を好きでいてくれるのではと、紫絵里は期待していたが、友達以上にはなれていない。
他の女子生徒から見ても、紫絵里は身の程知らずと思われ、紫絵里の独り芝居にしか思われてなかった。
ただ、調子に乗って、優介をあたかも自分のものとしている、浅はかさが伺えるのが鬱陶しい元だった。
少なくとも紫絵里の態度にうんざりしていた女子達は、席替えが行われることにほっとしていた。
この時も担任の鮎川華純はクラスの一大イベントのように、席替えを盛り上げようとしていた。
「さてと、折角仲良くなった隣の人とは今日でおしまい。名残惜しいけど、席が離れても悲しむことなかれ。クラスは同じなんだからね。そして新たな出会いにも期待しましょう」
放課後を控えたホームルーム。
ざわつきの中でくじ引きの箱が回され、クラスはそわそわとした雰囲気に
包まれながら誰の隣になるか期待が高まっていた。
今度こそ優介の隣になれるかもしれないと望みつつ、女子達はくじびきに挑む。
しかし、いざ席が決まると、その女子達の顔がこわばった。
また紫絵里が優介の隣の席を勝ち取ってしまったからだった。
「あら、続けて二度も一緒になるなんてあるのね。これはお導きかしら」
華純はニヤニヤと意味ありげに笑っていた。
華純にとって他愛のない感想だったが、クラスの女子達には笑えなかった。
ギスギスとした不満ある態度を露骨にとる女子に、華純は女の嫉妬の怖さを垣間見る。
しかし、嫉妬するなという方がおかしく、人間の本能の感情には本人自身でさえもどうすることができない。
それらを見て見ぬ振りし、華純は指導者として、上から見下ろす。
これから何が起こるのか、その成り行きを特等席からじっくりと見ようと決め込んだ。
女子達の気持ちも知らずに、優介は呑気に構え、紫絵里の隣に再びなった事に素直に感心していた。
「おっ、また瀬良と同じ席になったな。すごい偶然だ」
「ほんとだ。だけど、もしかして嫌がってる?」
「そんなことないさ。お前の横だと、授業中当てられても困らないし、大いに助かってるよ。またよろしくな」
「もちろん」
紫絵里を受け入れる優介の優しさがとても心地いい。
紫絵里は女子たちの突き刺さる視線を四方八方から感じていたが、優越感に浸り「ざまあみろ」と思いながら、満面の笑みになっていた。
席替えが済んだその放課後、皆それぞれ、教室を後にしていく。
紫絵里はクラスの女子数人から声を掛けられ、教室に居残るように言われた。
無視することもできたが、変に自信がついてしまった紫絵里は、言われるままに静かにして、自分の席に座っていた。
真理は状況をすぐに呑み込み、紫絵里に近づき、正面から不安な表情を向けた。
紫絵里は顔を上げ、微笑み返した。
「どうしたの、泣きそうな顔をして」
「だって……」
真理はその後の言葉をどう続けていいかわからない。
「大丈夫だって。何も心配することないわ」
「私も傍にいていい?」
「そんなの、いいよ。一人で大丈夫だから」
「でも」
自分が一緒にいても何も助けにならないことは分かっていたが、真理は紫絵里を放っておいて去ることもできなかった。
そんなじれったいやきもきとしたやり取りを続けている間に、リーダー格である、柳井瑠依(やないるい)を筆頭にクラスの女の子達数人が、無愛想
な顔をしながら二人の前に勢いつけてやってきた。
ギロリと焼き付けるような目つきで紫絵里を睨みつけ、傍にいた真理には目もくれなかった。
真理は臆病風が吹いて、後ずさりしてしまった。
瑠依は、紫絵里の座ってる前に立ち、バンと机の上に両手をついて威嚇した。
「ちょっと瀬良さん、あなた調子に乗りすぎるのはやめてくれる?」
紫絵里は黙って、瑠依を見上げていたが、そのメガネの奥の瞳には憎しみと怒りの炎が見えるくらい強く相手を睨んでいた。
ちょうど睨み合っている二人の横顔が見える位置に、真理は立ち、おろおろとして立ちすくんでいた。
その真理の反対側の位置には数人の女子が立ち並んでいる。
異様なその女の子達の威圧が、放課後の教室の空間を歪ませて、別の世界を作り上げていた。
「言いたい事はそれだけ?」
挑発とでも取れる紫絵里の強気な態度が、女生徒達の気持ちと周りの空気をも巻き込んでピリピリとさせる。
「よくそんなに落ち着いてられるわね」
呆れ気味に瑠依が答える。
その様子を真理はじっと見ていた。
苛立っている瑠依の横顔。
ふわりとしたセミロングの癖毛。
すらっとした手足。
気持ちが乱されて腹を立ててるから、少し眉が釣り気味だが、そんな表情でも冷たい美しさがあった。
瑠依もまた自分の恋に必死なのだ。
はっきり言って、少し性格に癖のあるメガネをかけた紫絵里よりも、その数倍もあか抜けている瑠依の方が男受けもよく、優介には似合っているように思える。
正々堂々と優介に向かっていけば、紫絵里には負けないくらい、もっと親しくなれそうなのに。
四六時中、隣の席で仲のよい姿を見せつけられて、瑠依は嫉妬でその矛先を紫絵里に向けてるだけだった。
少しは遠慮してほしい、あまり優介と馴れ馴れしくしないでほしい。
そこに腹いせと八つ当たりも含め、てっとり早く自分の気持ちを抑えるために、こんな醜い手を使ってしまった。 恋が狂わせてしまっただけなのだ。
歪んでしまった恋心の行く末に、真理は不思議と瑠依に同情していた。
そして、紫絵里もまた、自分の恋を邪魔される事に我慢がならないでいる。
そこにはきれいごとでは済まされない、熾烈さはあるけれど、一人の男を巡って、自分の恋に必死になる二人の乙女心の気持ちが、ずきんと真理の心にも響いてくる。
好きになってしまったら、それはどうしようもない。
思いを胸に秘めておくだけで我慢できないから、辛く苦しく、そして熱く溶けて心から溢れていく。
その強いエネルギーのせいで、人は何をしでかすかわからない。
例え誰かが犠牲になったとしても──
まさにこの二人は、その気持ちを持ってぶつかり合ってしまった。
恋の威力を目の当たりにしながら、真理はこの時、誰にも知られず、自分の本当の気持ちを必死に封印していた。