第一章


 暴力は用いられなかったが、いつまでも平行線のように、紫絵里と瑠依の睨み合いは続き、お互いをけん制し合っていた。
「悔しかったら、あなたも松永君と仲良くなればいいじゃない」
 隣の席になった強み。
 紫絵里は強気だった。
「あなた、松永君と本当に親しくなったと思ってるの? ただ席が隣なだけじゃない」
「でも柳井さんが私ほど松永君と喋ってるところ見た事ないけど。話を交わす機会もないじゃない」
「瀬良さん、あなたのためにもはっきりと言っておくわ。松永君はあなたを好きじゃないわ。隣の席だから気さくに話しかけてるだけ。それを勘違いしないことね。あなたを見てるととてもイタイ人に見えて仕方がないの」
「その割には、私に嫉妬しているようにも見えるんだけど。そういう柳井さんもイタイ人だわ」
 当の本人はもちろん、瑠依の味方である友達でも、こんな言い方をされたら、益々紫絵里に腹を立てることだろう。
 案の定、傍に居た女子達の眉が吊り上がり、表情が険しくなっている。
 瑠依の肩を持ち、我慢しきれず何かを口にしかけた時、瑠依は咄嗟にそれを遮った。
「もういいわ。みんな、行きましょう」
 見ていた者達の方が納得いかない顔をしていた。
 それでも瑠依が踵を返して教室から出ていくと、残りの者は後をついていくしかなかった。
 瑠依にしてみれば、イタイと思っていた紫絵里の口から、自分がイタイ人と言われたことで我に返ったに違いない。
 そこまで自分が落ちぶれてしまったと、急に自尊心を傷つけられたようにショックだったのだろう。
 真理は何となくだが、瑠依の気持ちが読めていた。
 再び静けさが教室に戻ってきたところで、空気も和らいで、ほっと一息がつけた。
「真理、傍にいてくれてありがとうね。やっぱり心強かった」
「私、何もしていない」
「ううん、真理が居てくれただけで、私にも味方がいるんだって思うことで負けなかった。真理はやっぱり私の親友だ。本当にいつもありがとう」
「そんな……」
 先ほどからずっと座っていた紫絵里は椅子から立ち上がり、そして黒板の前へと進んだ。
 太陽は西に傾き、教室に弱々しい光が入り、もの悲しい寂しさを漂わせている。
 紫絵里はチョークを手にして、黒板の隅に落書きをしだした。
 静けさの中に、チョークが黒板にぶつかる音が小さく響く。
 そこに描かれたものは他愛もないただのハートマークだった。
 描き終わるとチョークを置いて手を軽くはたき、自分で描いたハートを見つめ紫絵里は呟く。
「私が松永君の席の隣になれたのは、真理のお蔭」
 くるっと振り返り、紫絵里は真理に笑顔を向けた。
「私のお蔭?」
 真理は頭に疑問符を乗せてきょとんとしている。
 紫絵里はクスクスと笑い、再び机に戻り、床に置いてあった鞄を取り上げて中から何かを取り出した。
「ほら、これをくれたでしょ」
 手のひらには白い塊が、パールの光沢をもって光っていた。
 その白くぼやっと光る塊が真理の瞳の中に映りこんだ。
 優しい仄かな輝きに、どこからともなく懐かしさがこみ上げてくる。
「それは……」
「願いが叶う魔法の石…… なんて言われたけど、最初は冗談だと思ってた。でもきれいだし、真理がくれたものだから、持ち歩いてたんだ。そしたらやっぱりいいことがあった。松永君の席の隣になったしさ、それで学校が楽しくなった」
「紫絵里、その石は……」
「一度目はほんの軽い気持ちで願ったんだ。松永君の隣に座ったら、こんな私でも声を掛けてくれるのかなって、好奇心だけでそうなればいいなって思っただけ が、本当にそうなったからびっく りしたんだ。それからこの石に頼るようになって、もっと楽しく話せますようにって願ったら、本当にそうなったから、今度は、もう一度松永君の席の隣になれ ますように、って強く願ったんだ。それが叶った時、やっぱりこの石のお蔭なんだって、今ではすっかり信じてる」
「あっ……」
 真理は言葉を失ったように、混迷していた。
「どうしたの? あっ、まさか、急に惜しくなって返してとかいわないでよ」
 おどけた笑いをしながら、紫絵里は返すつもりなど全くない強い眼差しを、一瞬真理に向けた。
「えっ、そ、そんなこと言わないけど。でも、その石にはあまり頼らない方がいい。そんなのただの偶然よ」
「偶然にしても、これを持ってるとなんだか運がよくなる気持ちになるの。それに、すでに願いが叶ってるし、やっぱり石の力があるのよ」
「紫絵里、それ、本当に私が渡したの?」
「今更、何をとぼけてるの。真理が私にってくれたんじゃないの。やだ、もしかして忘れちゃったの? それとも何かの勘違いだと思ってるの? でもこれは本当に真理から貰ったわ」
 真理は考えていた。
 確かにあの石には見覚えがある。
 しかしそれを紫絵里にあげたという記憶がなかった。
 何か誤解が生じている。
 とてつもなく、それが問題を起こしそうに真理は胸騒ぎを覚えた。
 紫絵里の石を見つめる目が憑りつかれたように、トロンとまどろんでいた。
「ねぇ、真理、次に私が願うことが、何だかわかる?」
 石の力を信じて止まない紫絵里は、不敵な笑みを口元に乗せて呟いた。
「そんなの、わからないわ」
「えっ? 真理なら私が何を望んでるか気が付いてると思ってた。だけど、教えてほしい?」
 甘えを見せるようでいて、何かを期待している目を紫絵里は向ける。
 そこに自ら話したいという願望が現れていた。
 真理はぐっと体に力を入れ、そして首を横に振る。
「ううん、聞きたくない」
「聞きたくない? どうして?」
 自分の思ってる言葉を引き出せなかった紫絵里はこの時、眉間に皺を寄せた。
 親友の真理になら自分の本当の気持ちを話せるのに、真理もきっとそういう話を楽しんで聞いてくれると思いこんでいると感じてたのだろう。
 自分の浮ついた気持ちが急に重みを増して、その場の雰囲気にも影を落とす。
 真理が俯き加減に目を合わせようとしないその態度も、なんだか腑に落ちないでいた。
「あまりそういうのは聞きたくないから……」
 真理が悲しげに言うその発言に、紫絵里ははっとした。
 もしかしたらという疑いを、この時初めて感じた。
 紫絵里が優介と過ごせば、そこに必然的に真理も一緒にいる。
 自分が優介に夢中になっているだけに、真理も同じ思いを抱いている可能性が否定できないでいた。
 真理に自分が抱いている気持ちを悟られないように、紫絵里は無理に笑顔を作る。
「真理は心配してるんだよね。もし願いが叶わなかったら、どうしようって。それに、願掛けの一種で、人に教えたら効力がなくなることも危惧してるんだよね。それとも他に何か理由があるの?」
 挑むような目つきで、紫絵里はメガネの奥から強く真理を見つめた。
 そこには、例え同じ気持ちを持っていても、自分の方を立ててほしい、諦めてほしいという願望が添えられている。
 そして、何より、真理は紫絵里には逆らうことはないだろうという、友達の力関係を確かめるものも含まれていた。
 紫絵里は真理を忠実な犬とでも思うように、決して自分を裏切らない、そんなことは起こりえないと信じ切っていた。
 真理は、紫絵里の言わんとすることがよくわかり、誤魔化すように虚しい笑みを添え、首を無意味に横に振る。
「私さ、なんだか変われそうな気がするんだ。いつもは目立たない、誰からも相手にされない、つまらない女の子だと、自分でも思ってたんだけど、松永君と話しているうちに、自分で殻に閉じこもって、自分はダメな人間って思い込み過ぎてたんじゃないかって、気が付いた」
 紫絵里はメガネをはずし、裸眼で真理を見つめた。
「メガネをはずしたらさ、松永君が、不思議そうに私を見たの。『メガネを取ると雰囲気変わるんだね。メガネかけてない方が瀬良はいいかも』って言ってくれたんだ」
 メガネを取った紫絵里は、はっきりと目が見える分、より一層童顔だとよくわかる。
 それがかわいいかと言えば、そこは人の好みによるから、一概では決めつけられないものがあった。
 それに優介はあくまでもメガネのあるなしで、どちらがいいかと言っただけであり、かわいいとは言っていない。
 しかし、紫絵里には褒め言葉に聞こえ、自分に興味を持ったのではという期待に膨らんでいる。
 願い事が叶うと思い込んでいる石をギュッと手で握り、紫絵里は思いを強く心に描いている様子に見えた。
「真理、私の事、こうやって傍についてこれからも応援してね」
「ええ」
 真理にはその返事しか選択はなかった。
 再びメガネを掛け、紫絵里は満足したように微笑む。
「そろそろ帰ろうか」
 鞄に石を入れてから肩にかけ、教室の戸口に向かった。
 黒板に描かれたハートの落書きを見つめながら、真理も後からついていった。
 どこか胸がずっきんと痛んで、無意識に胸を押さえていた。
inserted by FC2 system