第二章


「真理、何をぼーっとしてるの? バスに残ってるの私たちだけになったよ。早く降りようよ」
「えっ」
 真理が辺りを見渡せば、すでに目的地に到着し、クラス全員はすでにバスを降りた後だった。
 紫絵里に急かされ、真理は慌てて下車し、駐車場に降り立った。
 学校の生徒達がそこに溢れかえり、先生の指示に従い一定の方向へと流れて行っている。
 大きな広場でクラスごとに集まって列を作り、そして注意事項を聞いた後、整列していた生徒たちの群れは一気に乱れた。
 キャッキャと羽目を外して騒ぐ女子生徒の甲高い笑い声。
 馬鹿笑いして、派手に走り回るお調子者の男子生徒。
 放出された稚魚のように自由にあちこちに向かっていった。
 平日の人が少ない静かだった場所は、燃料を投下されて火がついたように、ガヤガヤとして賑やかになって行く。
 さらに他の学校の観光バスも後から数台やってきて、同じように生徒達が放たれたので、人数が増える度に辺りはごちゃごちゃとし出していた。
 水族館や博物館の施設が集まり、観光名所として見るところも遊ぶところも多く、土産売り場やショッピングセンターも多々とあり、その雰囲気に飲み込まれるように、遠足でやってきた者はすぐさまはしゃいでいた。
 集合時間までは自由行動とされ、気の合うグループごとに固まって、一般客や他校の生徒達の中に交わっていく。
 その中で真理と紫絵里は二人寄り添い、ポツンとしていた。
「どこへ行く?」
 真理が尋ねると紫絵里は、その先に居た優介の後姿を目で追っていた。
「ついていく?」
 そうしたいのだろうと思って真理が口に出すと、紫絵里ははっとして、持っていたリーフレットを慌てて広げだした。
「先に水族館に行こうか。これが遠足のメインで、チケット貰ったし」
「そうだね」
 紫絵里のように思っている生徒は多く、二人が水族館の前に来た時、先に見学を済ませたい生徒の列がすでに出てきていた。
 列に加わり、二人はノロノロと入口に進んでいく。
 紫絵里は時々後ろを振り返って、列に並んで来る人を見ていた。
 真理が回転バーを押して中に入ってる間も、紫絵里は後ろを振り返る、
 ちょうどその時、最後尾に優介がやってきたのを見て、紫絵里の顔が綻びた。
 暫しそれに気を取られていると、すでに入場ゲートを通り終わっていた真理の声が前から聞こえた。
「紫絵里、何してるの?」 
 紫絵里はハッとして前を振り向き、真理を見た。
「あっ、真理、待って」
 ぼーっとしていた紫絵里は、慌ててチケットを受け付けの人に差出すと、その女性は不思議な顔をして、紫絵里を見つめた。
「あの、何か?」
 紫絵里が声を掛けると、取り繕う笑顔を向けてチケットを切り取り、「楽しんで下さいね」と半券を紫絵里に返した。
 紫絵里は回転バーを押し、真理の方へ向かうが、その一部始終を見送ってから受付の女性は再びチケット切りに集中していた。
「あの受付の女の人、変な感じだったね」
 紫絵里が言った。
「紫絵里が、流れを遮って中々ゲートを通らないから、呆れてたのよ。それなのに、反省もしないで『あの、何か?』ってそれ失礼よ」
「あっ、そっか。でも、変なもの見るようにじろじろ見なくても」
 紫絵里がもう一度その受付の女性を見れば、偶然また視線が合ってしまい、慌てて真理の腕を取って小走りに逃げた。
「ちょっと、紫絵里、引っ張らないで」
「早く魚見に行こう」
 さっさと奥へと進んでいった。
 建物の中へ入ったとたん水の中へ潜るように、辺りは青い世界に包まれる。
 青に染まった自分の体。
 冷たくなっていく錯覚を覚える。
 空調システムが効いているせいもあるが、実際肌寒く、少し鳥肌が立った。
 ひんやりとした、冷たい海の底に紛れ込んだように、そこは神秘的な空間だった。
 小さい魚から大きな魚、種類も様々に海の生き物が泳ぎまわっている姿に、真理は暫し童心に返って素直に目で追う。
 紫絵里は後ろばかりを気にして、何度も振り返り、優介を探していた。
 真理は敢えて何も言わず、目の前の魚だけを見ていた。
「やだ、あの魚、なんだか数学の先生みたい」
「ほんとだ。そういえばあの先生、魚みたいな顔してるよね」
 知らないクラスの女の子たちの会話と、笑い声が、耳に入ってくる。
 それに注意を引かれて、紫絵里はその魚を見てしまった。
「あっ、ほんとだ。似てるかも」
 紫絵里もぼそっと呟いた。
「魚に似てるって陰で言われるのも、悲しいね」
 真理が言った。
「でも悪口ってわけじゃないし、それは感想だよね」
「だけど、本人の前では言えないんじゃないかな。やっぱり気を悪くしそう」
「でもさ、親密度が高い友達同士なら、冗談で済ませられるんじゃないかな」
「そうかな。それじゃ私が紫絵里の事を、あの小さな目の大きい魚みたいなんて言ったら、どう思う?」
 せせこまとせわしなく泳ぎ回ってる雑魚を指差した。
「えっ、なんであれが私なの?」
「ほら、やっぱり嫌でしょ」
「だって、あれは可愛くないし、ほんとにどうでもいいような魚でつまんない」
 紫絵里は明らかに不満そうな顔つきになった。
 姿形もだが、そのどこにでもいる目立たないつまらなさが、自分自身を言い当てているようにも思え、痛い所を突かれたみたいに紫絵里の機嫌が悪くなった。
 真理は冷静にそれを受け止め、また質問した。
「それじゃどんな魚に例えたら、喜ぶ?」
「えっ、それは……」
 魚自体あまり可愛くないので、どれに例えられても満足いくようなものはなかった。
 質問にうんざりし、紫絵里は呆れた顔になって真理を見た。
「じゃあ、真理だったら、どんな魚に例えられたら嬉しいのよ」
 紫絵里はやり返すつもりで言った。
「私なら、サメかな。それも人を襲うような大きくて、邪悪なサメ」
「えっ、真理、一体どうしたの。サメなんて真理の雰囲気からほど遠い。自棄にならなくていいから」
 真理は水槽の中をゆったりと泳ぐサメをじっと見ていた。
 館内の照明と水槽の水の光で青く染まった真理は、紫絵里の目から見ても美しかった。
 自分の事で頭が一杯の紫絵里は、常に真理を振り回す立場だった。
 真理は大人しく、紫絵里の後をついてくる控えめな性格をしている。
 自分に従うのをいいことに、紫絵里はそれを当たり前のように思い、どこかで自分は真理よりも上の立場だと勝手に思っていた。
 普段の真理は布で自分を覆うように、容姿の美しさがさほど目立たないが、自分自身をサメに例えてから、意外な部分を見たように感じた。
 たったそれだけの事が引き金となって、真理の美しさが急に前面に出てくるように、その存在が違うものに見えてくる。
 真理自身の心の持ちようで、真理はもっとその美しさを人前にさらけ出せ、見るものを虜にできるのではと紫絵里は真理の魅力にこの時になって気が付いた。
 自分が叶わないものを真理は持っている。
 そう感じることが、どこかで恐れるように、紫絵里の真理を見る目がこの時変わった。
 それはただ不安を煽り、あまりいい感じではないと、そわそわとするような気持ちの表れだった。
 言葉なく二人はその場に佇み、水槽の中を見ていると、また誰かの話し声が耳に入ってきた。
「だけどさ、サメって、こんなに他の魚と一緒にいて、なんで襲わないんだろう」
「サメって種類も沢山いるし、本来は大人しい魚らしいよ」
「でも、人がサメに食われたとか、ニュースにもなるじゃない」
「だから、そういう襲うサメはほんのわずかな種類で、ここにはいないし、充分に餌を貰ってたら、無闇に周りの魚を食べたいとは思わないみたいなんだって」
「へぇ、サメにも色々なんだね。ここにいるサメは大人しい種類なのか」
「それでも、時々襲うやつはいるらしいけど、特に鼻が利くから、血の匂いなんかにすごく敏感で、嗅ぐとものすごく興奮するらしいよ」
「あっ、そのシーン、映画でもなんかあったね。最初は優しいのに、血の匂いで急に凶暴になるやつ。えっと、なんだっけあのアニメ…… あっ、ファイティング・ニモだったかな」
「馬鹿、それを言うなら、ファインディング・ニモでしょ」
「あっ、そうか、ハハハハハ」
 二人の間で交わす楽しそうに笑う声は、お互いの波長があっていた。
 紫絵里はふと真理に視線を向けた。
 真理の耳にもその会話が聞こえていただろうが、興味なさそうに自分だけの視点でまだサメを見ていた。
 真理はなぜ自分をサメに例えたのだろうか。
 ここにいるサメは大人しい性質らしいが、真理はそれよりも凶暴さを秘めたサメを自分と照らし合わせている。
 何を考えているかわからない真理が、紫絵里には脅威的に思えたのか、声を掛けるのをためらっていた。
 そうしているうちに、真理が振り向いた。
 目が合うや、健気な笑顔を見せ、いつもの真理の姿に戻って、紫絵里は戸惑った。
 先ほど感じた気持ちは自分の思い過ごしなのだろうか。
 真理は吹きかけると消えてしまいそうなくらい、とても頼りなく見えた。
 その姿は全くサメには似つかわしくなかった。
「真理は、人魚みたい」
 ふと、紫絵里の口から出ていた。
 魚に例えるなら、それが一番ぴったりとした真理のイメージだった。
「えっ、人魚?」
「ほら、魚に例えたらってこと」
「人魚って魚なのかな」
「魚って名前についてるくらいだが、人の形した魚なんだよ」
「でも私、人魚なんて嫌だな」
 てっきり、笑って楽しんでくれると思っていた紫絵里にとって、その真理の答えは意外だった。
 人魚には美しさというイメージも含まれるし、魚の中で例えるのなら一番いい例なはずだった。
 でも真理は、気分を害するように暗く沈んでいる。
 滅多に反抗せず、受け流す真理が、この時強く嫌がっていた。
「どうして? 嫌なの?」
「だって、好きな人と結ばれない運命だから」
「えっ、それはアンデルセンの物語の中だけじゃない」
「でも、人魚ってなんかいつも悲劇的な話が多いように思う。あまりいいイメージじゃない」
「ちょっと、真理、そこまで思わなくたって。サメよりはずっといいと思うけど」
 紫絵里はバツが悪くなり、水槽に視線を移した。
 サメがゆったりと、小さな魚の群れを横切って泳いでいた。
 大人しく見えるけど、サメというだけでどこか信用置けない怖さがあり、何かのきっかけで豹変する可能性を秘めてい部分を紫絵里は見ていた。
 それは、真理が気を悪くした姿を初めて見たことに似ているようで、紫絵里は少し不安になる。
 水槽の青い世界を見つめ、水底にいるように目で冷たさを感じるが、実際、かなり温度が低い。
 先ほどから紫絵里はぞくぞくと冷えを感じていただけに、その時、思わず身震いしてしまった。
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