第二章


「一体、何があったんだろう。心臓発作かな」
 身近で起こっている切迫した状態に、紫絵里は動転し、おろおろとしている。
「もともと、体が弱い人だったのかもね。お気の毒に」
 真理は止まっている観覧車の天辺を見上げて言った。
 そのゴンドラの屋根の上に、黒い羽根を持った男が、ふざけたように足をぶらりとさせ座っている。
 それを真理がはっきり見た時、それは不敵な笑みを向け立ち上がり、その後さっさと上空へ飛び立っていった。
「ハイド……」
 ついその男の名前が口から洩れた。
「えっ、何?」
「ううん、何でもない」
 真理は慌てて、目を逸らし、俯いていた。
「なんだか、とんでもない時に出くわしたね。あの人、大丈夫だといいんだけど」
 大したことがないように、紫絵里は願うつもりで言った。
「そうだね」
 真理は相槌を打つように、虚しく呟いた。
 真理にはわかっていた。すでにその人が命を落としていたことを。
「ここに来て、観覧車なんか乗らなければよかったのに、そうすれば……」
 真理が言った後、紫絵里が続けた。
「こんなことにならなかったかもね。よっぽど体に負担がかかったのかも」
 だけど、真理は違う事を考えていた。
 もう少し長く生きられたのに──と。
 ハイドがここに居たために起こってしまった事。
 あの人は運が悪かった。
 そして、変に目立って倒れてしまうともっと悲惨さを招いてしまう。
 池に餌を投げて集まってきた鯉のように一ヶ所に集まって、スマートフォンを持ち上げていた人々。
 さらし者にされたようだった。
 真理は救急隊に運ばれていく犠牲者をぼんやりと目に映し、心の中で冥福を一人祈っていた。
 そうするのが礼儀だといわんばかりに。

 全てが片付いた後は、平常に戻るのも早かった。
 先ほどの事はなかった事のようになり、周りの人々もすぐに忘れて各々に行動していく。
 止められていた観覧車も再び動きだした。
「やっと動いた。これで乗ってた人は安心だね」
 紫絵里は自分がそうなっていたらと考えていたのか、一番上を見上げて言った。
「中で閉じ込められていた人は、不安だっただろうね。機械が故障したと思ったかも」
 真理も同情するように答えた。
 ゆっくりと下に降りてくる観覧車が地上に到着し、ドアが開けられて人が出てくる様子を、二人は無意識に暫く見ていた。
 ほっとした表情をしている人。
 突然のハプニングに驚き、訳がわからないまま笑っている人。
 口を閉ざして、落ち込んだ顔をした人。
 その強張った顔の女性は自分たちと同じ制服を着ている。
 それは真理も紫絵里も知っている顔だった。
 瑠依──
 どちらも声には出さなかったが、はっとして彼女を見ていた。
 そして、その後に優介が続いて出てきた時、紫絵里はガツンと何かが頭に落ちてきたようにショックを受けた。
「嘘、どうして……」
 紫絵里は、衝撃のあまり顔を青ざめて立ち竦んでいた。
 それとは対象的に真理は、従容として二人が歩いている様を見ていた。
 瑠依の顔が絶望し、泣きそうになっているその後ろで、優介は陰りを帯びたように考え込んだ表情で困惑していた。
 どちらも宙ぶらりんとしたゴンドラの中で、恐怖を感じていたように見える。
 まるで一緒に乗ったことを後悔するように、二人の間の距離がどんどん開いてよそよそしくなっていた。
 その様子に真理は違和感を持った。
 瑠依は自分の友達を見つけた途端、優介のことなど気にもせずに、走り寄って友達の胸に飛び込んで肩を震わしていた。
 それを慰めるのに、何人かが瑠依を囲んで労わっている。
 そこで交わされている会話は聞こえなかったが、観覧車が止まったことで怖かった事を話しているのだろう。
 その様子を遠目に優介はバツが悪そうな顔を向け、その後は踵を返して、一人違う方向へポツポツと歩いていった。
 陽気で明るい優介の背中が丸くなって元気がない。
 それを見ると、真理はいたたまれなくなった。
「紫絵里、松永君の所へ行こう」
 一人で歩いている時がチャンスとばかりに、真理は大胆になって紫絵里を煽る。
 紫絵里はそれどころじゃなく、瑠依のいる方向を見つめ、先を越されてしまった事に信じられない気持ちを抱いていた。
 放心状態のまま、意識が飛んでしまい、真理の声が聞こえなかった。
「それじゃ私だけでも行くからね」
 紫絵里を放っておき、真理は優介を追いかけた。
「松永君!」
 真理の呼び止める声に反応し、優介は後ろを振り向いた。
「真理……」
 意表を突かれた優介は眩しそうに目を細め、息をついて走って来る真理を見つめていた。
「観覧車乗っていたみたいだけど、大丈夫?」
 真理の心配する目は優介の心に素直に届き、少し綻びを見せた。
「ああ、大丈夫さ」
「でも、なんだか元気がない」
「うん、ちょっとね」
 言いたくなさそうにする優介の気持ちを察し、その後、真理はもじもじとしてしまった。
「真理が気にすることはないよ。でもいきなり止まった時は、正直怖かったかな」
 素直に気持ちを吐露する優介は少し照れくさかったのか、誤魔化すようにはにかんでいた。
「一緒に乗ってた柳井さんは相当ショック強かったみたいだね」
「えっ、ああ、そうかもね。だけど俺もとばっちりみたいなものだから」
「とばっちり?」
「柳井の友達が俺の友達を巻き込んで、無理やり二人で観覧車に乗せられたんだ。はめられたって訳さ。それであのアクシデントだろ。なんていうのか、本当になるべき時に起こってしまったって感じだった」
「そうだったの」
「まあ、済んでしまったことだから、もういいけどね。俺もとにかく忘れたい」
「ごめん、私が声かけたから余計に嫌な思いさせたかも」
「ううん、そんなことないよ。真理が心配してくれて嬉しかったよ。ありがとう。だけど瀬良は一緒じゃないのか?」
「あっ、紫絵里は、あっちにいるんだけど……」
「これから、二人はどこへ行くつもりだい。よかったら一緒に行動してもいいかな。あんなこと計画されて、あいつらと一緒に行動したくないし、あいつらも俺が怒るのわかってて、逃げてしまったみたいだし」
「もちろん、歓迎だわ。紫絵里も喜ぶと思う」
 真理は優介と肩を並べて歩き出した。
 優介と真理が何かを話しながら徐々に近づいてくるのが視界に入った時、紫絵里は我に返り二人の許へと小走りに駆け寄った。
「二人で何してるの」
 納得いかない顔が露骨に出ていた。
「どうした、瀬良、恐ろしいものを見たような顔して」
「えっ、だって、その」
 しどろもどろになってる紫絵里を優介は面白がり、軽く紫絵里の頭をポンと叩いた。
 すぐさま紫絵里はそれに反応し、氷解したように表情が和らぐと、少しメガネもずり落ちた。
 それを整えると同時に安心感に包まれ、コミュニケーションが取れた事で、ほっとしていた。
 またいつものように話が弾み、優介が無理やり瑠依と観覧車に乗せられた事実を知ると、悩みが払拭されたようにいつも以上に元気になっていた。
 残りの自由時間を優介と過ごせることも拍車をかけ、紫絵里はこの上ない幸せを感じていた。
 できる限り優介の隣に居たいと真理の事などどうでもよくなっている。
 真理もそれをわかっているのか、控えめに二人の後をついていく形で一緒に行動していた。
 クラスの女子とすれ違えば、視線が突き刺さるように向けられるが、却ってそれが快感であるといわんばかりに、優介と楽しく話してる所を見せつけた。
 瑠依が取り巻きの女子達に守られるようにしながら紫絵里を見ているのも、立場が逆転したように気持ちがよかった。
 後ろを控えめに歩く真理の様子が目に入らず、紫絵里は優介とまるでデートをしているかのように周りに見られていた。

 優介と一緒に行動してから、時間が経つのが早く感じられた。
 そして、集合時間がそろそろ近づいてきていた頃を見計らって真理は声を掛けた。
「そろそろ、バスに戻った方がいいんじゃないかな」
 優介も紫絵里も腕時計を見て時間を確認する。
「そうだな、そうするか」
「えっ、まだ早いよ。真理は余裕を持たせ過ぎ、早く戻ったら、なんか損しそう。どうせ、みんなギリギリまで戻ってこないって」
 紫絵里は調子づいていた。
「でも、結構、外れまで来ちゃってるよ」
「そんなに心配なら、真理は先に行ってていいよ」
 紫絵里のその言葉には本心が伴っている。
 真理はひっそりと溜息を吐いた。
「それじゃ、瀬良はギリギリまで遊べばいいよ。真理、行こうか」
 優介が真理と一緒に歩き出すと、紫絵里はこんな展開になるとは思わず、「えっ!」と声を出して驚いた。
「ちょっと、なんでそうなるのよ。待ってよ」
 追いかける紫絵里を愉快だとばかりに優介は笑っていた。
 結局は和気藹々しながら三人が歩いていると、後ろから「優介!」と呼ぶ声が聞こえた。
 優介が振り返れば、そこには違う制服を着た数人の女子達がじっと見ていた。
「優介、どうして連絡くれなかったの?」
 涙目になりながら、茶髪の女の子が訴えている。
 優介は真理と紫絵里の様子を窺い、少し取り乱していた。
「すまない、先に行ってて」
 それだけ言うと、声を掛けられた女の子の許に走り、そして二人だけでどこかへと行ってしまった。
 幸せ一杯だった紫絵里は、またどん底に落とされたようにショックを受け、棒立ちになっていた。
 真理はこの時も冷静だった。
「ちょっと、あなた優介の彼女?」
 声を掛けた女の子の取り巻きの一人が、話しかけてきた。
 派手な化粧で大きく見えるようにした双眸を向け、短いスカートからはスタイルのいい太ももをさらけ出したその女子高生は、紫絵里たちとはかけ離れた世界に住んでいるのが一目でわかる。
 優介の彼女と言われたことであっけにとられてた紫絵里は、意識を取り戻したようにはっとし、その派手な女子高生と向かい合った。
「何か用?」
 彼女と訊かれた部分には敢えて触れず、紫絵里は答えた。 
 対抗意識をもった紫絵里のきつい様子は、メガネを掛けた真面目そうな風貌から想像できなかったのか、声を掛けた方が少し怯んでいた。
「別に喧嘩売ろうとかそういうんじゃないんだ。優介には気をつけなって言いたかっただけなんだ」
「えっ、どういう意味?」
「意味って、その言葉通りだけど、あいつ結構派手な所があるっていうのか、悪だからさ、泣いた女が一杯いるんだよ」
 紫絵里は話が見えずに声を失っていた。
「その調子じゃ、優介に騙されてるんだね。あいつ、顔はいいけど、性格悪くてさ、寄ってくる女の子と次々付き合っては振ってるんだ」
「なんでそんな事知ってるの?」
「中学の時同じクラスでさ、傍で見てたからよくわかるんだ」
「同じ中学?」
「さっき、呼び止めた子もそうなんだけど、中学卒業まじかまで優介が付き合ってた子なんだ。ところが、卒業を控えた頃、羽目を外した優介は不良グループ とバイクに乗って、事故に遭って卒業式出れなくなって、そのままお別れしちゃったんだ。そのまま音信不通だったんだけど、偶然今日出会ったってことなん だ。優介にとったら自然消滅ってことですでに終わってるんだけど、そういうの卑怯だよ」
「それで、今話し合いしてるって訳ね」
「まあね。それでも、いい結果にはならないとは私は思ってる。それに優介みたいな男に振り回されるのなら、はっきり終わらせた方があの子にもいいと思う。だからあんたにも、気をつけなって忠告しただけ」
「でも、松永君、全然不良とかそんな悪いところなんてないけど」
「高校生になって、少しは変わったんだろうけど、本質はどこかでくすぶってるんじゃないかな。まあ、あんたを見てる限り、かなり趣味変わったみたいだね」
 紫絵里は何も言えなかった。
「まあ、優介が心入れ替えて変わったんだったら、それに越したことはないし、優介も変わるほどあんたに魅力を感じたのかもしれない。別に邪魔をするつもりはなかったんだ。気に障ったらごめん」
「ううん、別にそんな事ないし」
 見かけの割には、中々腹を割って話せるタイプに、紫絵里は感心していた。
 見かけは普通でも瑠依のような陰険なタイプよりはよほど好感が持てるほどだった。
 話したい事だけ話すと、その派手な女子高生は友達とどこかへ行った。
 紫絵里と真理も、いつまでも突っ立っているわけにもいかず、集合場所へと向かった。
 相変わらず空は垂れ込めた雲に覆われたまま、どんよりとしていた。
 全てが曖昧で、よくわからない中途半端な気持ちを代弁するかのような空模様と一緒に、紫絵里も困惑していた。
「真理、どう思う?」
「何が?」
「だから松永君の事。あの派手な女子高生が言ってたように、本当に不良だったんだろうか」
「何を心配してるの?」
「別に心配してるとかじゃなくて……」
「もし、松永君が元不良だったら、嫌いになるの?」
「えっ、それは」
「だったら、別に気にすることないと思う。松永君はきっと生まれ変わったんだと思う」
「そう…… だよね。人間は変えようと思えば変わるもんね。きっと過去を反省して、いい人になろうとしてるんだわ。もしかしたら、真面目な部分の大切さを知って、それで私に……」
 頬を赤らめるように紫絵里は一人ぶつぶつと自分よがりに話し出していた。
 まるでそれは自分に脈がある関係のように、真理の前では恥も外聞もなく、思うままにふるまっていた。
 そこに願いの叶う石も持ってることを含め、紫絵里は全てにおいて自分にいい風に巡ってきていると信じて止まなかった。
 そして後に、優介と瑠依の観覧車の中で起こった決定的な真実を知った時、紫絵里は益々ドキドキと心高鳴らせ、自分の恋の成就が近いと思うのだった。
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