第四章


 自分にしてみれば、紫絵里を出し抜いた行動だったと、誰もいない放課後の教室で、窓の外を眺めながら今日一日の事を真理はぼんやりと思い出していた。
 静寂であっても、心の中はノイズがかかったようにざわめいている。
 これからやろうとしていることを考えれば、考えるほど、それは騒ぎ立ってくる。
 抑えていたものはすでに飛び出てしまい、元には戻れない。
 危機感にも似た恐れる震えを抑えようと、真理は自分自身を包むように腕を抱えた。
 教室を見渡しこれまで見てきたモノを頭の中で巡らせる。
 悪口、嫌がらせ、人間の醜い感情──欲望が飛び交う空間。
 虚しくてやるせない、でも抑制できない悲しい性。
 それは、つまらない世界そのもの。
 そして窓の外を見つめ、いつでもここから抜け出せると真理は自分に言い聞かせた。
 自分の心の中を映し出したような空。
 雨は降っていないが、空は灰色の雲に敷きつめられ、ところどころの雲の嵩と重なり合い、部分的に陰が濃くなって黒ずんでいる。
 晴れた日にのぞかせる雲は白くて柔らかそうにふわふわとしているのに、雨雲は不穏に不安を連れてくる。
 それは自分の心の中にも立ち込める。
 でもその黒い雲も真理は嫌いじゃないから、美しいと思う事にした。
 その黒い雲を見ているうちに、次第にイメージが広がって、行きつく先はハイドの羽根へと繋がった。
 以前はまっ白い羽根を持っていたはずなのに、それは真黒く染まってしまった。
 翼こそ折れなかったが、ハイドも堕天使と成り果ててしまい、元いた場所には戻れなくなってしまった。
 なぜそうなってしまったのか、それはマリアと恋に落ちてしまったから。
 マリアがいつも離さず抱いているあの本は、マリアとハイドの恋物語が記されている。
 二人の恋の真実がマリアの手によって綴られ、マリアはずっと、その恋を思い出し、ハイドへの永遠の愛を誓って止まない。
 一度は読んだことのある、あの恋の物語を真理はおぼろげに思いだし、恋する苦しさを、自分の事のように重ねていた。
 マリアが、真理と優介の恋を応援するのも、マリア自身が辛い恋をしているからだった。
 真理と優介の恋が実る事を、マリアは陰で切実に願っていた。
 二人の心はいつも一つに、お互いの気持ちが通じ合う。
 優介に思いを募らせ、そして応援してくれるマリアの期待にも応えたい。
 そんな思いを抱えて、真理は優介の机を見つめていた。
 一人だけの物思いにふける時間だと思っていたその時、ガラッと勢いよく教室のドアが開き、ドキッと恐れるほど身を縮ませる。
 振り返れば、自分以上に驚いていた顔がそこにあった。
 丸くした目を向けた優介が、声を詰まらせながら、そこに立っていた。
「真理……」
 やっとの思いで出した、息を喘いだ優介の声。
 切なく名前を呼ばれ、スイッチが入ったように突然真理の胸がドキドキしてくる。
 紫絵里が居ない場所で、優介と二人っきりになったのは初めてのことだった。
「どうしたの?」
「えっと、その、俺、教科書忘れて、取りに来たんだ。もうすぐテストだろ。なかったら勉強のしようがないもんな」
 慌て気味に自分の机に近づき、中から英語の教科書を取り出した。
「これこれ」
 教科書を真理に突き出して、恥ずかしげにヘラヘラと笑っていた。
 それにつられて真理もクスッと笑った。
 緊張が解けて和んだ空気が流れると、優介は勢いに乗るように教科書を開いた。
「この不定詞と動名詞がややこしいんだよな」
「わかる。どっちも使えるのに、使い方で意味が違ってくる動詞があるから、どっち使えばいいのかこんがらがるね」
「そうなんだ、stopや rememberなんかは、to+動詞の原形だっけ、それとも動詞+ingだっけ、ってとっさに出てこないよ」
 優介の指差すページを近くで見ようと、真理は優介の傍に近寄った。
 サイドにかかる髪を耳の後ろに引っ掛けて、その教科書を覗き込む真理の仕草に優介は息をのみ込んだ。
「これはね、コツを抑えると簡単に覚えられるよ」
 真理が顔を上げた時、優介は慌てて目を教科書に向けた。
「そ、そうかな。よかったらそのコツ教えてくれないかな」
「うん、いいよ」
 優介は自分の席に着くと、真理は紫絵里の席だとわかっていながら隣の席に着いた。
 一つの教科書を一緒に見ると二人の距離は縮まった。
 まじかで見る真理の白い肌の肌理の細かさ。
 時折、髪の毛を抑える仕草。
 儚げでいて、凛としたその存在。
 鼻で息を吸い込めば、いい匂いがしそうに、真理は花のように見えた。
 漠然的に白いバラのイメージを優介は思い描いていた。
 真理の好きな花──
「それで、この動詞は不定詞しか使えなくて……」
 いつしか動きが止まっている優介を不思議に思い、真理が顔を上げると、優介は見とれていたことを隠すようにぎこちなく慌てだした。
「な、なんか暑いよね」
 決して、それは気温だけじゃなく、真理を意識して気持ちが高ぶったのも原因だった。
「そ、そうね」
 あまりにも近い場所に、優介が居て、顔を合わせている事実に、真理も今更ながら気が付いた。
 意識し出した途端、頬が熱くなるのを感じていた。
 白い頬が淡いピンクに染まったその時、優介の真剣みを帯びた瞳がまっすぐ真理に向けられた。
「真理……」
「何?」
「あのさ……」
 息をするのも苦しくなるその教室の静けさは、時計の秒針の音までも呑み込み、二人のその瞬間を一瞬止めてしまった。

「それで、その後優介は何を言ったの?」
 真理からこの日起こった事の話を聞いていたマリアは、興味津々にベッドから身を乗り出して聞いていた。
「それが、その時、担任の鮎川先生が来ちゃって、いつまで教室に残ってるんだ、早く帰りなさいって、怒られちゃった。それで慌てて教室出たものの、話の腰 折られちゃって言葉続かずで、結局帰る方向違うから最後は『試験が終わったら、今日の放課後みたいにまたゆっくり話そう』で終わり」
「あら……」
 聞いていたマリアの方ががっかりとして体から力が抜けていた。
「だけど、ドキドキだったんだから」
「でも、私の言った通りになったでしょ。優介は真理に好意を持っているから近づいて来た」
「そ、そうかな。たまたま会っただけで、あれは偶然に起こっただけ」
「真理! もっと自信持ちなさい。あなたはとても魅力があるのよ」
「ちょっと待って、顔がそっくりなマリアがそれを言ったら、なんか変」
「何が変なの。それくらい自信を持ちなさいっていってるだけ」
「本当に松永君は私の事気にかけてくれてるのかな。紫絵里よりも」
「当たり前でしょ。紫絵里なんてあなたの引立て役じゃない。どんなに努力したって、真理の自然な美には敵わないわよ。それに気が付かない紫絵里が哀れだわ」
「だけど私はこれからどうしたらいいの。毎日学校で紫絵里と顔を合わせるし、私が松永君に近づけば、彼女は絶対に許さないと思う」
「いいじゃない、それで。反対にもっとけしかければいい。私ならそうする」
「そんな、はっきりと言われても」
「ううん、いざというときは、真理は絶対にできるわ。紫絵里なんて気にしなくてもいい。好きな人に好きだと早く伝えなさい。そして優介の心をしっかりと奪うのよ。あなたならできる」
 マリアは両手を広げ真理を呼び寄せる。
 真理はマリアの腕の中にすっぽりと包まれて、ぎゅっと抱きしめられた。
 マリアに融合されるように温かく包まれ、それは心地良く安心感を得られた。
「恐れることはないのよ真理。私はあなたを信じてる。あなたは好きな人を手に入れられるわ」
 呪文のように甘く耳元で囁くマリアの声が、体の中に浸透し、マリアの積極さを分け与えられたように、真理の恐れが消えていく。
 体の力が抜け、マリアに支えられ、真理は暗示にかかるように意識を朦朧とさせた。
「私の思いは真理の思い。真理の思いは私の思い」
 マリアの声がずっと耳に残り、いつまでもリフレインしていた。
 次第に自分が真理なのか、マリアなのか、わからなくなっていくようだった。
「もっと力を抜いて、そして自分の気持ちに正直になりなさい」
 まるで暗示にかけるようにマリアは真理を言い負かせる。
 次第に真理の心は解き放たれ、優介を思う気持ちが膨れ上がってくる。
「それでいいのよ、真理」
 真理の思いを肌で感じ、マリアは微笑した。
 口元に乗せたその小さな笑みにマリアの欲望が込められて、それはどこか怪しく、邪悪なものにも見えるようだった。
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