第四章


 一度教室を出て、誰もいなくなるのを見計らったところで、真理は再び教室に戻ってきた。
 人が居ない教室に一歩踏み込むと、閉じ込められた空気が自分に向かって跳ね返った。
 外の雑音が、風に乗ってぼんやりと届くが、教室は音を跳ね除けて静けさを保とうとしていた。
 机や椅子、黒板といった、この教室にあるもの全てが眠りにつこうとしているように思えた。
 それらをじっくりと眺める。
 真理は誰もいない教室に一人でいるのが好きだった。
 朝の早い時間や皆が帰った後の夕方の放課後。
 始まりと終わりを一人で見ると、自分だけがこの教室を支配している気持ちになれた。
 今は、太陽の日差しが眩しい午後の昼間。
 始まりの静けさや、終わりのもの悲しさとは違う雰囲気が、真理には新鮮だった。
 一人窓辺に立ち、青い空とくっきりと浮かぶ立体感のある白い雲を目を細めて仰いでいた。
 燦然と輝く太陽に照りつけられると、自分が溶けていきそうに、肌の焼けつきを感じた。
 真理は初めてこの教室に入った時の事を思い出す。
 誰にも気に留められないで、一人ぼっとし、自分はここにはふさわしくないと疎外感たっぷりに、溜息を吐いていたが、
 同じように投げやりな部分を抱えて、一人でいる紫絵里の姿が目に入った。
 じっと見つめれば、紫絵里も真理に気が付いて目が合った。
 その出会いが奇跡だと思った。
 それからは友達になるには時間がかからなかったが、紫絵里が自分を見つけてくれた事に心から感謝したものだった。
 紫絵里は癖のある性格をしているが、唯一の友達だから、真理は気にせず紫絵里の事を一途に受け入れた。
 少し人との付き合い方に慣れてないだけ。
 紫絵里は真面目で一生懸命に突っ走る、臨機応変に物事を考えられない損な性格だった。
 流される真理にとってみれば、多少の紫絵里の強情さは頼りがいがあったし、ややきつい性格でも、自分にはない部分に惹かれていた。
 長所としてみれば、紫絵里は珍しく自分の信念を持っていて、周りに影響されずに意見をはっきり言える性格だった。
 ただそれが悪く言えば頑固でもあるが、自分の意思をしっかりと持っているのは、その辺にいるメンタルが弱い者よりはしっかりしていた。
 それくらいの強さがある方が、真理にも都合がよかった。
 真理と波長が合うことで、紫絵里は真理にとって欠かせない存在。
 真理は紫絵里と一緒に居ることに充分感謝していた。
 だけど同じ人を好きになったことで、紫絵里のバランスが崩れてしまった。
 真理もそれは充分判っていたが、こればかりは感情に支配され、お互いどうしようもない。
 真理はできるだけ控えめにしてきたが、マリアに言われる度に、自分の感情も抑えようがなくなってきた。
 マリアの言う事には、真理は必ず従ってしまう。
 自分と同じ容姿、常に傍に居て、真理の味方になってくれる。
 もう一人の自分。
 知らずと真理もマリアに感化されて、行動が大胆になってくる。
 そしてそれもすでにピークに達していた。
 そろそろ、行動に起こす時が来たと真理も思うようになっていた。
 だから、この時、誰もいない教室で、大胆になろうと真理は覚悟を決めていた。
 テスト前に優介と偶然一緒に過ごし、優介の気持ちに真理はふと触れた。
 お互い特別な言葉は交わさなかったけど、一緒に居るだけで意識し過ぎてドキドキしっぱなしだった。
 それが心地よくもあり、あの気分は後味がずっと続いた。
『試験が終わったら、今日の放課後みたいにまたゆっくり話そう』
 最後そう言って、あの日、優介と別れたが、真理はその言葉を今もずっと覚えている。
 試験が終わったこの日、もしかしたら優介は現れるんじゃないだろうか。
 こうやって誰もいない教室にいるのも、真理は密かに優介を待っているからだった。
 紫絵里にどこかへ行こうと誘われて、マリアとの約束をほのめかしたが、決してそれは嘘ではない。
 マリアとの約束も本当の事ではある。
 それは後の話で、真理は気持ちに押されて、とにかく優介をこの静かな教室で待ちたかった。
 紫絵里には正直に話せず、申し訳ないと思いながらも、真理は優介を自分のものにしようとしていた。
『まあね。それで試験が終わった日に、俺は女神にお礼しなくっちゃいけないかも』
 優介が言っていた言葉に隠れていた真の意味。
 真理はそれを自分へのメッセージだと信じて疑わなかった。
 だから、本当に優介が、教室に入ってきたその時、真理は間違ってなかったと、素直に喜んだが、一歩一歩優介が自分に近づいて来た時、なんだか怖くも感じていた。
 胸をつんざく勢いでドキドキする。
 それに比例して血もドクドクと激しく波打つ。
 好きだという恋心。
 だが、この先の不安。
 同時の感情を持ち、この上なく全身が締め付けられたように血が騒いでいた。
「よかった。俺のメッセージがちゃんと伝わっていて」
 照れた笑みをこぼし、右手を後ろに回しながら、優介が近づいてくる。
「松永君、私、その……」
 この場に及んで真理は怖気ついた。
 窓際に立つ真理の前に近づいた優介は、後ろに隠していた右手をそっとを差出した。
 その手の中には、透明フィルムでラッピングされた一輪の白いバラが握られている。
「これを」
 さらに前に突き出され、真理は恐る恐るそのバラを手に取った。
「いつか、白いバラが欲しいって言ってたよね。俺、花なんて買うの初めてだから、よくわかんなくてさ。あまりたくさん買ったら、持ってくる時に目立ってもいけないと思って、一本だけ急いで買ってきたんだ」
「ありがとう。とってもきれい」
「喜んでもらえて嬉しいよ。でもなぜ白いバラが好きなんだ?」
「花言葉」
「えっ、花言葉?」
「白いバラの花言葉は多数あるけど、その中でも『私はあなたにふさわしい』を意味するのが好きなの」
 真理はそっとそのバラの香りを嗅いだ。柔らかな恋の吐息にも似た甘い香りがする。
 そのバラの香りに酔いしれ、官能的にも似た喜びを浮かべている真理に優介はドキッとする。
「そんな意味があるなんて知らなかった」
「いいのよ、花言葉なんて気にしないで」
「違うんだ。その、俺、その花言葉通りになってほしいって思う」
「あっ……」
「つまり、その、俺は真理にふさわしいのかなって、だから、俺、真理が好きなんだ」
「松永君……」
「初めて会ったのは、君とそっくりなお姉さんの方だったけど、でも真理を見ていると、真理に惹かれていった。だけど真理は引っ込み思案で、中々近づけなく て、そんな時、真理と親しい瀬良と隣の席になって、これはチャンスかもって思った。君は、瀬良の傍に居た事で、俺は少しずつ言葉を交わせることができた。 瀬良と仲良くなればなるほど、真理も一緒に居てくれたし、そのチャンスを逃したくなかった。俺はずっと真理の事好きだったんだ」
 マリアの言ってたことは正しかった。
 優介は真理に近づくために、紫絵里と仲良くなっていただけだった。
 バラを持つ真理の手が震えた。
「私も、松永君の事、ずっと好……」
 と最後まで言い終わらなかったその時、紫絵里が「やめて!」と叫びながら、恐ろしい形相で教室にやってきた。
 真理と優介は突然の事に体を強張らせて驚いた。
「紫絵里!」
 真理が叫んだ時、紫絵里の目つきは益々狂気じみて憎しみを込めた。
「裏切り者! 嘘吐き!」
 その言葉は真理に向かっていた。
 紫絵里の手にはあの石が握られてている。
 最後の最後まで、強く願いを込めて祈っていたのだろう。
 皮肉にも、その石が輝く光はとても美しく、紫絵里の嫉妬を嘲笑っているように見えた。
 紫絵里もそれに気が付いたのか、石にまで憎しみが向かった。
「何が願いの叶う石よ!」
 紫絵里は怨嗟を込めて、手に持っていたその石を思いっきり床に叩きつけた。
 まるでガラスのようにその石は尖って砕け、残った部分が鋭利を帯びたようにシャープな塊と化した。
「瀬良、落ち着け」
 優介が声を掛ければ、益々油に火を注ぐように紫絵里の恨みが膨れ上がる。
 紫絵里はマリアから話を聞いて、不安になって確かめに教室に戻ってきた。
 そして教室の戸が開いたその陰で、真理と優介のやり取りを聞いてしまった。
 真理に近づくためだけに優介は自分と仲良くし、ただ利用されただけで、一人道化のように舞い上がっていたその事実を知って、怒りが込み上げてくる。
 優介と相思相愛だと信じていた事が馬鹿らしく、それがひどく紫絵里を傷つけてしまった。
 足もとで割れた石を紫絵里はじっと見つめ、心の憎しみが非情な鬼のような狂気となり、紫絵里は次第に我を忘れていく。
 尖がった石の部分が鈍い光を放した時、紫絵里の瞳は恨みの炎に揺らいだ。
 石を拾って手に取るや否や、シャープな部分を優介にめがけて、怒りをぶつけたい感情のままに襲いかかった。
「やめて、紫絵里!」
 一早く真理は、身を翻して優介の盾となり、振りかかる紫絵里の腕を強く押さえつけた。
 咄嗟の行動で持っていたバラの花を手放してしまい、バサッと床に落ちた。
 バラは涙のように自らの花びらを数枚散らばらせていた。
「離して、このクソ女! あんたも死ねばいいのよ」
「紫絵里、落ち着いて。憎しみのまま行動したら、後で必ず後悔するわ。それに、そんなこと紫絵里がするんじゃない! その石を返して。それは元々私の物よ」
 抵抗しようともがいている紫絵里の手から石を取り上げようと真理は抗っていた。
 それを手助けしようと、優介も加勢し、紫絵里は身動きが取れなくなり、その間に真理は紫絵里の手から石を奪い取った。
 石を奪われると紫絵里は、はっとして自分がしてしまった事に驚き、後ろに後ずさった。
 まだ興奮した気持ちが肩を震わせ、涙をいっぱい目に溜めて激しく喘いでいた。
 それでも紫絵里は悪態をつき、怒りを露わにし、持っていきようのない悔しさと失恋の悲しさで優介を睨むのをやめなかった。
「松永君なんかサイテー。女心を弄ぶだけ弄んで、女たらしはやっぱり本当だったのね」
「瀬良…… 俺は」
「真理も裏切り者。私の親友じゃなかったの? それなのに陰でこそこそして、卑怯者!」
「いい加減にしろ、瀬良!」
 優介に本気で怒鳴られると、紫絵里はビクッと怯え、目に溜まっていた涙が零れ落ちた。
 その後はダムが決壊するごとく、大泣きしていた。
 それを見ると、真理も胸を突かれるように苦しくなった。
 こんなに憎悪を見せてはいるが、紫絵里は優介を一途に愛し、自分が彼女になることを夢見て、そして信じて石に願いを込めていた。
 自分の手元、紫絵里を狂わした元凶とでも言えるその石を見つめ、真理は溜息を吐いてしまう。
「紫絵里、ごめんね」
 真理に謝られても怒りは収まらず、紫絵里の泣き声は一層強くなり、その泣き方は横隔膜に入り込んでヒックヒックとしていた。
 そのせいで憎む気持ちが削がれ、子供の様に幼く背中を丸めてひたすら泣きじゃくる。
 その様子を真理も優介も静かに見つめていた。
 ある程度して、紫絵里の泣き声が少し落ち着いたところで、優介は自分の心情を吐露した。
「俺が悪いんだ。はっきりと最初に真理に自分の気持ちを伝えなかったから、瀬良は誤解してしまった。俺、初めてこのクラスに入って真理を見てから、ずっと真理が好きだったんだ。俺の気持ちは変わらない」
 顔を歪ませて語る優介のやるせなさと、切ない恋を語る気持ちには、紫絵里もどうすることもできなかった。
「何よ、何よ、だったら真理はその気持ちを受け止めないでよ。真理も松永君も不幸になるべきよ。この私のように。それくらいの償いはしてもらう権利はあるわ」
 最後の悪足掻きとでもいうように、紫絵里は無茶苦茶な事を注文する。
 申し訳ないと思っていたが、図に乗る紫絵里に対して、優介は呆れ気味に溜息を一つ吐いた。
「しかし、真理も俺の事が好きだと言ってくれたんだ」
「それじゃ、私はどうなってもいいというの。はっきり言って、松永君に弄ばれたのよ。どうやって償ってくれるのよ」
「俺は瀬良を弄んだ覚えはない。友達として瀬良と付き合ってただけに過ぎない」
「何よ、都合のいいことばかり言って」
 再び紫絵里は泣き出した。
 今の状態では何を言っても無理だった。
 そうなると優介は次第に苛々し、却って開き直ってしまう。
「なんといっても俺は真理が好きだ。瀬良がどんなにわめこうと、俺を罵ろうと、俺は真理が好きな事には変わりない」
「松永君、今はちょっと抑えた方がいい」
 紫絵里の感情が高ぶっているだけに、真理は窘めた。
「真理の馬鹿、松永君の馬鹿。バカバカバカ」
 憎しみが悲しみ一色になり、無力になって行く紫絵里が哀れだった。
 だが、すでにこうなってしまった以上、真理も後には引けない思いだった。
 真理こそ、自分を貫かなければならないと覚悟を決めた。
「紫絵里、私はやっぱり裏切れないわ」
「えっ?」
 真理の言葉に紫絵里はどこかで期待をするように頭を上げた。
「おい、真理、どういうことだ。裏切れないって、紫絵里をか?」
 今度は優介が意表を突かれたように驚いた。
 真理は優介と向かい合い、真剣に見つめた。
 そこには思いつめた気持ちが込められ、瞳が強く優介を捉えていた。
 優介と相思相愛だとわかった今、真理にとってそれは何を意味するのか。
 真理もまた目に涙を浮かべ悲壮な面持ちをしていた。
「だから、裏切れないの。私は、私は……」
 その時、真理は鋭利に尖ってしまった石を強く握り、それを上に持ち上げ、思いっきり優介の心臓めがけて突き刺した。
 突然の狂った真理の行動に、紫絵里は悲鳴を上げ、その声が廊下にまで響き渡って行った。
 胸を刺された優介は目を見開き、目の前にいる真理の顔を強張って凝視している。
「松永君、私もあなたの事が大好きよ」
「ま、真理、な、なぜ」
 優介は呆然となり、ただ驚く。
 そして胸を刺された痛みにやっと気が付いた時は、すでに息が苦しく喘いでいた。
 真理は優介に寄りかかった勢いでさらに力を入れ、優介の心臓の奥へとその石を食い込ませた。
 二人は重なり合い、真理は優介の耳元で呟いた。
「優介、真理を愛してくれてありがとう」
 そして真理は優介に優しく唇を重ねた。
 優介は喘ぎながら、ただなすがままにそのキスを受け入れながら息苦しく体を震わせていた。
 真理が優介の唇から離れた時、優介は息も絶え絶えに必死に声を振り絞った。
「君は…… 真理じゃ…… ない」
「そんなのどうでもいいじゃない。同じ顔なんだから」
 邪悪とでも取れる口元をただ上げただけの微笑。
 それが優介が見た最後のビジョンだった。
 優介は胸を抑えたまま、糸が切れたあやつり人形のように床に崩れ落ちた。
 全てに圧倒され、恐怖に慄いた紫絵里も悲惨な光景を目にして腰を抜かし床に座り込んだ。
 声なき悲痛の喘ぎで、真理を見るも、そこには邪悪な姿で立ってる殺人鬼にしか見えず、怯えてしまう。
「真理……」
 名前を呼ぶことで恐怖から逃れようとした。
「私は真理じゃないわ。マリアよ」
「えっ?」
 どういう事なのか戦慄の中、紫絵里が困惑している時、窓から黒い翼を持つものが入り込んできた。
「ハイド!」
 マリアは走り寄ってハイドの胸に飛び込むと、ハイドはマリアを抱きしめる。
 二人は思いをぶつけるように、唇を触れ合わせ夢見心地になっていた。
 その時、ハイドの体から黒い羽根が一つ、置き土産のように倒れた優介の体に落ちた。
 優介の体に触れるとすぐにそれは白く光だし、その光に優介は包みこまれ、そして、沢山の羽根が飛び散るようにはじけて宙に舞った。
 それを見た紫絵里もまた、意識が次第に遠のき倒れ込んだ。
「時間がないわ。早く行きましょ、ハイド」
「そうだな、マリア」
 ハイドはマリアを抱きかかえ、窓から空へと飛び立とうとした時、瑠依が教室に飛び込んできた。
 倒れている優介と紫絵里、窓辺から飛び立ったハイドとマリアを見て驚きのあまり息を詰まらせていた。
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