終章


 紫絵里が怒るのも尤もだし、こんな話を聞いてもしっかりと受け止めているところは、癖がある性格のなせる業だと私は思った。
 夏の強い日差しが病室の窓から差し込み、外の焼き付けるような暑さが目から伝わる。
 それとは対象的に、温度調節がしっかりしている病室は、肌寒かった。
 紫絵里の心が冷え込んでいるように、この空間も冷たさが隅々へと伝播していく。
 紫絵里が怒っているのはあからさまだが、そこに歯を食いしばってその気持ちに抗っている様子も見受けられる。
 紫絵里は自分の心の中で、消化できない矛盾を感じているのかもしれない。
 私は紫絵里が再び話し出すまで気長に待つことにした。
 こういうのは慣れている。
 静寂さが私たちに考える時間を与えようと、いつまでもこの病室には音が存在していなかった。
 その無とも言えた空間に突然ノックが聞こえた時、パリンと何かが割れて突き破った気がした。
 それが軽やかで、行き詰っていた頭の中が一編に空間が広がり、紫絵里も私もハッとした。
 紫絵里は一瞬私を一瞥した後、迷いながらも「どうぞ」とその人物を病室に招いた。
 ドアが開くと同時に聞こえた「こんにちは」は、懐かしいと思える聞き覚えのある声だった。
 その人物は奥ゆかしく病室に入ってきた。
 担任の鮎川華純だった。
 真っ白いバラの花束を抱えて、にこやかに笑顔を向けて、閉めたばかりのドアの前に立っていた。
 冷たく凍りかけていた病室に柔らかな温かさが風となってすっと入り込んでくる。
 張りつめていたものが一気に揉み解されるように、それはそこにある全てのものが大らかさに甘んじ始めていた。
 鮎川華純が現れただけで、雰囲気ががらりと変わり、和やかさが広がった。
 紫絵里も、そしてそこに居た私ですら、予期せぬその鮎川の登場に唖然としながら、それをどこかで歓迎している節があった。
「瀬良さん、気分はどう?」
 はきはきとした透明な声。
 耳に心地よい響きがある。
 そこには華純の人柄が出てるように思えた。
 リクライニングしたベッドに背をもたげている紫絵里にゆっくりと近づき、白いバラの花束を華純はそのベッドの傍にあった台の上にさりげなく置いた。
 形が整った白いバラのつぼみが集まった花束は、清楚で無邪気に美しかった。
 白いバラが突然意味を成したように、紫絵里はそれを見るとボロボロと涙をこぼしだした。
 花に罪はない。
 でもこれを見れば否が応にも真理と優介の事を思い出さずにはいられないのだろう。
 それを察したのか、華純は眉毛を下げ気味に、気遣った。
「辛かったわね。でももう大丈夫よ。全ては終わったの」
「先生……」
 部屋の隅にあった来客用の丸椅子を見つけ、華純はそれを取りにいった。
 すぐその傍に私がいたが、全く気が付かずに椅子だけ手にすると、それを紫絵里のベッドの傍に置いて腰を掛けた。
「何も心配しなくていいの。だから、堂々と胸を張って教室に入ってきて。あれはあなたにはどうすることもできなかったことだった」
「だけど、松永君は……」
「松永君は残念だけど、誰がそこにいてもどうすることもできなかったわ。突然の心臓発作だったんだから」
「えっ?」
「あちらのご両親もちゃんと納得されてる。寧ろ、しっかりと松永君の死を受け入れていらっしゃるわ。松永君ね、中学卒業前に事故にあって、助からないっ て言われてたの。それが奇跡的に息を吹き返して、ケロッと治ったから、びっくりだったらしいわ。そして何より、ご両親は松永君の非行に手を焼いていてね、 家庭でも暴力をふるったりしてたらしいの。悪い友達との付き合いもあり、いつ犯罪に巻き込まれ、加害者側にならないか心配ばかりしてたそうよ。だから、事故に遭った時点で、すでにほっとするところがあったらしくて、それを包み隠さず正直に教えてくれたわ」
「松永君は中学生の時、かなりの不良だったってことですか?」
「そうだったみたいね。でも、奇跡的に助かってから別人のようになって、ご両親も本当に自分たちの息子かって不思議がってらっしゃったみたい。そして、突 然の死を悲しみながらも、どこかでそれは最初から松永君が計画していた事のように思えたそうよ。事故ですでに天国に行きかけたけど、戻ってきて最後のチャ ンスを少しばかり神様から与えて貰って更生したって、ご両親はこんな風に捉えてたわ。親としては子供を失うのは辛いけども、松永君の場合、少し複雑な事情 があったから、ご両親も色々と理由をつけたかったんだと思う」
 紫絵里はその話を聞いていて、ハイドが全てを操った結果だったと思った事だろう。
 実際、すでに命を落としかけていた優介に新たな命を吹き込んだのはハイドだったし、不良から構成させて、新たな人格を植え付けたのも、その一環の作業だった。
 すでに元の優介は消え、優介の体を借りた別の人格がそこに居ただけだった。
 ハイドは訳ありの素材しか選ばない。
 ハイドもむやみに自分の欲望を押し付けないで、迷惑にならずに選んでやっていたことだった。
 紫絵里は驚いて口がポカンと開いていたけれども、私が説明したことと重なって充分どういう事か理解したと思う。
 その時、私を少しちらっと一瞥し、自分が思っていることが正しいのか自分なりに確認しようとしていた。
 だから私も、首を一振りして、肯定してやった。
「どうしたの? 瀬良さん」
「えっ、あっ、その、そうだったんですか。松永君は心臓発作だったんですか……」
「私もね、それは仕方のない事だと思うのよ。もちろん、死んでいなくなってしまうのは悲しいし寂しいわ。だけど私達がどうしようと、それはそういう運命を 決められていたの。たまたま瀬良さんはそこに出くわしてしまっただけ。色んな噂が学校で飛び交ってるけど、気にしないで。私はちゃんと真実がわかって るから」
「だけど、また私、陰で悪口言われて、嘲笑われるわ。私、皆から嫌われているもの」
「そんなの気にしちゃだめ。ああいうのは本当に馬鹿な人たちなのよ。そういう時は、こう考えるの。人の悪口を言ってる人は、代わりに悪い運を吸い取ってく れてるって。そのお蔭で悪口言われた人は運が向上するの。そして、悪口言ってる人は、頭に不運とウンコを一杯乗せてるって」
「やだ、先生」
「言葉は汚いかもしれないけど、人の悪口をいう事はそれだけの汚いものを自分に振りかからせてるってことなのよ。だから負けちゃだめ。先生もあなたくらいの時、悪口言われたし、いじめられたけど、そう思うことで乗り切ったわ。お蔭で運は本当に向上したのよ」
「先生がいじめられた? 信じられない。皆から信頼されて慕われてるのに」
「私にだって過去はあるわ。それに、そういった事を経験したから今の私があるの。それにね、あなたと同じように、私も恋をして三角関係になって、そして逆上して我を忘れた事があるのよ」
「えっ?」
「その時に好きになった人が、ほんと松永君と雰囲気が良く似た人だったわ。そして、真理という名前の女の子もいたのよ」
「えっ!?」
「もうすっかり過去の話ね。思い出せば懐かしいとすら思える。そして真理に会いたいわ。ねぇ、真理は今ここにいるの?」
「先生、それって」
「やっぱりそうだったのね。松永君と瀬良さんが倒れていて、その傍で白いバラがあって、あまりにも自分の時と似ていたから、まさかと思ったけど、やはりマリアとハイドの恋物語が続いてるのね」
 紫絵里は驚きすぎて、声が喉の奥で詰まって喘いでいた。
 そして、華純が持ってきた白いバラの花束を紫絵里は見つめた。
 華純は全ての事を知っている。
 それが意味することは──
「真理、マリア、そしてもう一人のななしさん。私はもう見えないけど、あなた達がまだ存在していて嬉しいわ。思う存分恋してね」
「先生!」
 やっとの思いで紫絵里の声が出た時、華純は席を立ちあがった。
「さてと、私はこの辺で帰るわね。瀬良さん、辛かっただろうけど、それは必ず貴方にはプラスになるわ。だって、私がそうだったから。まだ今は利用されて腹 が立ってると思うけど、よく考えてみて。あなたは完璧に真理と付き合えた? そこにやましい気持ちは一度もなかったって言い切れる? あなたが恋に落ちた 時、あなたは真理に何をしたの?」
「私……」
「無理して答えなくていいのよ。よくゆっくり思い出してみて。そしたら自分がどう思うべきかって導かれるから。私は真理と親友になれて本当によかった。今は会えないのが寂しいけど。でもずっと忘れないわ。真理は私に大切なものを気づかせてくれたから」
 華純はドアに手をかけ去ろうとした時、思い出したように振り返った。
「そうだ、蒲生君だけど、瀬良さんの事心配してたわよ。瀬良さんが松永君の隣の席だった時、かなりヤキモキしてたみたい。蒲生君は今はちょっとふくよかだ けど、痩せて髪型を工夫したら、かなりのイケメンになるわよ。隠れた優良物件ね。そして何より性格も大らかで優しいわ。ちゃんと見てあげてね」
 紫絵里は圧倒されて、ぽかーんと口を開けたまま何も言えなかった。
 蒲生といえば、一番最初の席替えで紫絵里の隣の席になった男の子だった。
 気さくに喋っていたけども、まさか自分が好意を持たれていたとは、考えた事もなかった様子だった。
 鮎川華純は言いたい事を言うと、肩の荷が下りたように晴れ晴れとした顔つきになっていた。
 そして私が立っている隅を一度見てから部屋を出て行った。
 爽やかな風が、すーっと通り抜けたように、冷え切っていた病室は高原のような涼しさに包まれているようだった。
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