Part 2

 チェックインカウンターの端でコンピューター画面を見つめ、支配人の紫藤(しどう)はいつもの接客マナーを心得ながら、快く電話に受け答えしていた。
 淳を知っているという男からの予約の電話。
 一瞬素の自分が出てしまいそうに、心を乱されながらも、それを悟られないように完璧にこなしたが、電話を切った後は少し放心してしまった。
 息を整え、紫藤はホテルのロビー内を見渡した。
 吹き抜けの広々としたホテルの玄関でもある、このロビーは、きらびやかに明るく照らされ、お客たちは絶えず入れ替わり人で溢れていた。
 従業員は姿勢を正し、キビキビとした動作でお客に気を遣いながら動いている。
 一人一人のドラマが毎日ここで繰り広げられている。
 自分もその一人だと思い、戸惑いながらもそこに導かれようと特別の予約を受けることにした。
 そして、敦と香歩がホテルに現れた時、紫藤は心から二人を歓迎した。
 初々しく若いカップルはホテルの豪華さに少し怯みがちになりながらも、お互い寄り添って幸せそうに微笑んでいた。
 敦は紫藤を前にして、緊張しながらも淳と出会った時の事をたどたどしく話した。
「本当にありがとうございます。彼女とも仲直りできましたし、こんな素敵なホテルでクリスマスイブを過ごせるなんて、本当に淳さんと支配人のお蔭です」
「そうですか。それはよかったです。私もあなた方に来て頂いてとても嬉しい限りです。どうか楽しい時をお過ごし下さい」
「これ、淳さんからです。支配人さんに渡して欲しいって頼まれました」
 敦は薄紫色の封筒を突き出した。
 紫藤の瞳孔が一瞬見開くも落ち着いてそれを受け取った。
「ご丁寧にありがとうございます」
 その手紙を手にし、紫藤は二人がボーイに案内されて部屋へと連れて行かれるのをぼんやりと見つめていた。
 二人の幸せを心から願うも、その若さゆえの愛が羨ましくもあった。
 ハッとした時、手紙を持つ手に力が入り、その後溢れる感情が抑えられずに奥へと引っ込んだ。
 一方で紫藤のそんな葛藤を知らずに、部屋に案内された敦と香歩は、目の前に広がる街の景色に目を見張り興奮していた。
 ボーイが部屋から出て行くと同時にはしゃぎだし、部屋の隅々を見て回った。
 弾むように香歩はベッドに腰掛ける。
「敦、本当にありがとう。我がまま言ってごめんね」
「何言ってんだ。俺も嘘ついてごめん」
「だけど、淳さんって一体誰なの? 支配人と友達にしては歳離れすぎてない? 淳さんは私達と歳変わらないんでしょ」
「なんだか訳ありって感じっだったな」
「淳さんに、私からもお礼が言いたいな」
「それが、あれから会えないんだ。いつもあの公園を歩いてるって言ってたのに、探してもいないんだ。なんでだろう」
「後で支配人に連絡先聞けばいいんじゃない?」
「そうだね」
 二人は窓際に寄り添って立ち、日が暮れていく街を見下ろし、幸せムード一杯にその雰囲気に飲まれていった。

 休憩を取った紫藤は、預かった手紙を手にし、コートの襟を立てイルミネーションに照らされた通りを歩いていた。
 クリスマスイブとあって、カップルが多い。
 それを尻目にして息を白く吐き出して歩く。
 かつては自分もこの日にホテルを予約し、そこで愛する人を待っていた。
 だがその人は現れる事はなかった。
 あの日の事は悲しみでしかない。
 本当に不幸な事故と言い切れるほど、それは寝耳に水の出来事だった。
 泣きたくなる気持ちを抑え、紫藤は封筒を握りしめた。
 これにはラベンダーのドライフラワーが一本入っていた。
 微かに優しく香れば、それが声となってメッセージが耳元に届く。
 ラベンダーの花言葉は『あなたを待っています』。
 それに導かれ、敦が淳に出会ったという場所にやってきてしまった。
 自分も淳にあえるかもしれないという期待半分、やけくそ半分。
 一体そこで誰が自分を待ってるのか、半信半疑に辺りを見回す。
 寒空の下、誰かが自分にゆっくりと近づいてきているのが視界に入ってくる。
 その人物との距離が縮まり姿を確認すれば、心臓は早鐘を打つ。
 まさか、ありえない。
 信じられないと目を見開き、体が強張った。
「なんだよ、そんな化け物でも見るような顔は」
「だって、だって」
「まあ、いいさ、否定はしない。言いたい事はわかってる。それよりも今、大事なのはやっと会えたということだ。香、長い事待たせたな」
「本当に、淳なの?」
「ああ、俺さ」
 紫藤は喜び勇んで抱きしめようと駆け寄るも、淳の体を通り抜けてしまった。
 やはり、自分の思ってたことは正しかった。
 それが悲しくて、紫藤は泣いてしまう。
「泣かないでくれ、香。これは奇跡がいくつも重なりあった嬉しい事さ。笑ってくれ、あの時のように」
「淳、どうして、どうしてこんなことに」
「もう昔の事さ。あの事故から何年経ってると思うんだ」
「そうね、私は歳を取ってしまった。でも、あなたはあの時のままの姿なのね」
「自信もて、香りは俺の知っている時のまま美しく年を重ねてる。恥じる事は全くないぞ。そして、昔の事は引きずるな。もう来年のクリスマスイブは無駄な部屋の予約をするんじゃないぞ」
「だったら、私もそこへ連れてって。淳と一緒にいたい」
「馬鹿野郎、香にはまだ早いよ。やることはまだまだ一杯あるだろ」
「じゃあ、どうしてもっと早く会いに来てくれなかったの?」
「あの事故のあと、すぐ会いに来たさ」
「えっ!? それじゃ淳はずっとここに居たの?」
「ああ、そうさ」
「じゃあ、なぜ私は淳を見つけられなかったの?」
「仕方ないさ。奇跡の条件が揃わなかっただけさ」
「奇跡の条件?」
「そして、それがたまたま今日だったってことさ。でもそれも長くはなさそうだ。そろそろ行かなくっちゃ」
「嫌、行かないで、折角会えたのに」
「俺、やる事あるんだ。向こうでラベンダー畑作らなくっちゃ。香の好きな花だろ。香が来るまでに一杯咲かしておくよ。それまで時間がたっぷり必要だから、できるだけゆっくり来いよ」
「淳……」
「ラベンダーは魔法のハーブだよな。持ち歩けば幽霊に出会うしさ、恋をひきつけるけど、虫や邪眼を跳ね除ける。そのラベンダーの匂いしっかり嗅げよ。悲しみは吹き飛ぶし、長寿に導いてくれるから。香はもっと楽しく生きろ。それが俺の願いだ」
 思いを全部言い切った淳は、笑顔を見せながらあっけなく消えて行った。
 それはとても残酷で悲し過ぎたが、一瞬のこの奇跡に感謝しないといけないのだろう。
 せめて涙は見せないと香は必死に笑顔を作る。
「淳、会いに来てくれてありがとう」
 消えた淳のすぐ後に冷たい風が通り過ぎる。
 でも不思議と心は温もりに包まれていた。
 無意識に手元のラベンダーの香りを嗅いだ。
 あの頃の記憶が蘇る。
 それは甘く切なく懐かしい。
 そして淳が何気に言った言葉。
「香は花に例えるとラベンダーのようだ」
 紫藤の苗字に「紫」が入ってるのもイメージに結び付いたからかもしれない。
 淳はそれからよくラベンダーをネタにした話をし、紫藤はラベンダーが好きになった。
 気が付くと手元のラベンダーが香りだけ残し、いつの間にか手から消えていた。
 でもその香りは忘れない。
 紫藤は穏やかな気持ちの中、紫に広がる大地を想像していた。
「淳のランベンダー畑を楽しみにしてるわ」
 紫藤は、背筋を伸ばし、目の前に聳え立つ、自分が働くホテルを力強く見つめた。
 そこにはキリリとした支配人の矜持がみなぎっていた。
 今宵はクリスマスイブ。
 奇跡が起こっても不思議はない日。
 自分がそうであったように──
「メリークリスマス」
 言葉が自然と口から出ていた。
 紫藤は自分が味わった以上の最高のおもてなしをしたいと、誇るべき職場へと戻って行く。
 自分もまた誰かに奇跡を起こしたいと強く願い、イルミネーションの光のようにキラキラと輝く笑みをこぼしていた。
 
The End

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