Side亜藍 前編 5
「麻木…… ? だ、誰だい、その人?」
「えっ、知らないの?」
この場合は知らないフリをしなければならなかったから嘘をついたけど、動揺しすぎてどもってしまった。
「だからその人がどうしたの?」
麻木の名前が出たところで、奈美の出方が気になる。
俺が企んだことで一体どうなるのか俺は早くその先が知りたかった。
奈美は一部始終を話してくれたが、俺もそれは隠れて見ていたからあらすじはどうでもよかった。
それよりももっと肝心なことが知りたい。
奈美がそれをどう感じているのかが一番重要だった。
その先のことをもっと聞けるとばかりに、俺は真剣な表情で奈美を見つめた。
それなのに奈美は麻木の妹とどこかで出会ったことがなかったかと、麻木の正体の方に重点を置き、そして俺がナンパしたんじゃないかとまで言いだした。
正直俺は、ちょっと拍子抜けしてがっかりしてしまった。
だからついバカバカしいと鼻であしらうような言い方になってしまう。
「そんなに忙しいんだったら、なんで私なんかと今一緒に歩いているのよ」
「それとこれとは違うだろ。俺達何年の付き合いだよ。奈美と久し振りだったから、寂しいんじゃないかと思って気を遣ってやってるんじゃないか」
それが気に入らなくて奈美はまた突っかかってきたから、いい加減にしろよという感じになってしまった。
俺はつい強気になって、奈美のためなんて言い方をしてしまって、これでは逆効果だとつい尻すぼみで語尾の声が小さくなってしまった。
だけど奈美はこのとき笑い出した。
俺はてっきり、奈美が怒ると思っていた。
意地を張って「なんで私が寂しいのよ」って言い返すと思っていた。
奈美がそうやって怒れば図星なんだって、俺は少なからずそう思うことができたかもしれない。
だが奈美は俺を笑った。
「何がおかしいんだよ」
「だって、亜藍がそんな照れ隠しのような言葉を言うなんて思わなかった。そんな風に言うなんて、そっかそんなに寂しかったのか私と会えなくて」
奈美と会えなくて寂しかったのは事実だった。
だが俺はそんなことで恥ずかしくて黙り込んだわけではない。
奈美が笑ったことに対して、真剣にお互い向き合えない雰囲気が嫌でたまらなくなった。
このままではまたいつもと変わらない。
折角こんな小細工をしたというのに、結局は無駄で終わってしまった。
自分が益々情けなくなる瞬間だった。
だから俺は言葉を失い、失望感たっぷりに落ち込んでいた。
「亜藍、どうしたの? 急に黙り込んで。図星だったから恥ずかしくなったとか?」
「違う!」
俺は珍しく叫んでしまった。奈美は俺が思っているほど何も真剣に考えてないことで、その時不覚にも怒ってしまったのだ。
そして同時に自己嫌悪に陥る。
奈美が悪いんじゃなく、こんなバカなことを仕掛けた自分が一番悪いんだって思うと、奈美じゃないけど自分にイライラしてしまって感情が抑えられない。
正直に何もかも話せば言いのだろうか。
心の中で迷いが生じ、それがストレートに顔に表れていたと思う。
でもどう言えばいいのかわからなくなって、そして奈美の気持ちも確かめたくて、俺は自分ではっきり言えなかったにも係わらず、自分のことを棚に上げて先
に奈美にバトンを渡してしまった。
「何で今日、俺の家に来たんだよ」
奈美にその行動を取った原因を考えて欲しくなった。
奈美もやはり戸惑っていた。
お互いやっぱり真剣に話せるような雰囲気ではなかった。
どちらも不器用で長く一緒に居たために、今更肝心な部分を言葉に表せないでいる。
それとも俺が奈美を混乱させてしまったのだろうか。
しかし俺も一体どうしたいのか分からなくなってきた。
奈美の気持ちを聞いたところで、俺はその後どうすればいいのだろう。
そんなことを考えていると、年老いた男性が犬を連れてこちらにやってきた。
飼い主を引っ張りながら歩くその犬は、あまり躾がなってないのがすぐにわかる。
あれは絶対自分の所に寄って来る。
そう思うと体は自然に後ろに下がり、極力犬を避けようと防衛態勢に入っていた。
あの犬が大人しい飼い主の言うことを良く聞くのなら、奈美に変な気を使わせないようにと俺はまだ我慢できていた。
俺と奈美とそして犬が同じ場所に出くわしたとき、奈美はいつも罪悪感に苛まれる。
それは俺にも辛い一時だった。
だから早く犬が去っていって欲しいと、俺は黙って突っ立っていた。
奈美が遠い過去を見るような目で犬の後姿を見つめている。
この後、奈美が何を言うのか俺には分かっていた。