レモネードしゃぼん

その後 後編5


「ところでさ、あの子犬だけど、これからどうするの?」
 お参りを終えて家路に向かっていたとき、樹里が言った。
「俺が飼いたい」
 亜藍が迷わず答える。
 自分がまるで犬嫌いだということをすっかり忘れている。
「えっ、お兄ちゃんこれからフランスで住むんじゃない。連れて行くの? マミー(おばあちゃん)びっくりするよ」
「だけどどうしても飼ってやりたい。自分の犬嫌いも克服できそうな気がする」
 奈美は亜藍を見つめて黙って聞いていた。
「人間に捨てられて兄弟一杯失っちゃったけど、人間を嫌って欲しくないんだ。人間にもいい奴がいるんだって教えてやりたいんだ。俺を噛んだあんな犬にはなって欲しくない。最後まで責任取りたい」
「でもお兄ちゃん。犬をフランスに連れて行くって大変だよ。検疫検査だってあるし、その前に狂犬病の予防接種もしないといけないだろうし、まだあの子犬生まれたばかりだし小さすぎて長旅はきついんじゃないかな」
 樹里は無謀にしか思えなかった。
「だったら、私が飼う!」
 奈美がピカッと光った稲妻のように突然言った。
「奈美……」
 亜藍は驚いて奈美を見つめた。
「亜藍の気持ちは私が一番良く分かる。私が責任持ってあの犬を飼うわ。だったら亜藍も安心でしょ」
 奈美の気迫が感じられるくらい、真剣に亜藍に訴えている。
 樹里はそのときはっとした。
 これは本当にグッドアイデアの何ものでもなかった。
「それいいかも。もちろん私も散歩とか手伝うし、奈美ちゃんと一緒に育てる。三人で救ったんだから、皆で飼う権利あるよね。後はお兄ちゃんが時々会いに来れば皆で飼ってることになるんじゃないかな」
 樹里も必死だった。
 あの犬が居れば、亜藍と奈美の絆が繋がったままに思えてならなかった。
「奈美、本当にそれでいいのか?」
「うん。亜藍の代わりに私がしっかり育てる。私だったら信用してもらえるでしょ」
「ああ、そうだな。じゃあ時々写真をメールしてくれるか?」
「もちろん」
 亜藍と奈美は湧き起こる嬉しさと幸せが笑顔になって、お互いに言葉以上の気持ちをぶつけているようだった。
 まるで自分たちに子供が出来たような、そんな絆が芽生えている。
 樹里はこれも縁結びの神様の計らいなのかなと、やっぱり後ろを振り返り、何も見えないけど何かを確かめたい気持ちだった。
「それじゃ、亜藍があの子犬の名前をつけてよ。そしたら樹里ちゃんも私も側に居ない亜藍をいつも感じられるような気がする」
「うんうん、それもボンヌ・イデ(Bonne idee)」
 樹里はフランス語でグッドアイデアと言うと、樹里のきれいなフランス語の発音に奈美は驚いた。
「樹里ちゃんもやっぱりフランス語話せるんだ。すごいな」
「そんなことないよ、初心者並み」
 そんな話になって、すっかり二人は元気を取り戻していた。
 亜藍は二人を見つめながら、自然と笑みが口元から綻んでいる。
 若葉が青々と茂り、この日もやっぱり青空でそれと同じように心の中にも晴れやかな清々しさが広がっていた。
 亜藍はその空を仰ぎ、そして子犬の名前を真剣に考える。
 この子犬に出会えたこと。
 この先のこと。
 奈美のこと。
 その意味を考えていくと、今日という日があって、この先も未来に繋がっていく。
 離れていても、その未来まで絆はずっと繋がっていて欲しい。
 そんなことを思っていると、亜藍ははっとある言葉が頭に浮かんだ。
「なあ、リアンなんてどうだろう」
「あー、リアンか。なるほどそれいいね」
 樹里はすぐに反応する。
「リアン、なかなかいい響き。それって何か意味があるの?」
 瞳を輝かせて奈美は真っ直ぐに亜藍を見つめる。
 それをしっかり受け止めて亜藍は答えた。
「うん。フランス語で絆っていう意味なんだ」
「絆か…… リアン。うん、いい名前だ。それに決まり」
 奈美もすっかり気に入って、何度もリアンと呟いていた。
「亜藍、私しっかりとリアンを可愛がるからね。だから安心してフランスで勉強してね」
「ああ、時々リアンに会いに来てもいいよな」
「もちろん」
 亜藍と奈美の会話を聞きながら、樹里は一人心の中で突っ込む。
「そこは、奈美ちゃんに会いに来るというところだろ…… まあいいっか。結局は奈美ちゃんに会いたいがためにリアンを出汁に使ってるってことか」
 最後の部分は、ぶつぶつと自然と声に出して呟いていた。
「おい、樹里、なんか言ったか?」
「ううん、別に。なんかお腹空いたなって思ってね」
 樹里は適当に誤魔化す。
 最初は、はっきり行動に移さない亜藍と奈美にじれったさを感じ、お節介なことをして、うまく行かずに一人でイライラしてしまった。
 それにも懲りずに神頼みだと二人を神社に連れてきて、そして悲しい出来事にも遭遇した。
 色んな事が起こったけど、二人には強い絆がすでにあって、本人たちは知らずとそれを繋げているっていうのが充分わかったと、樹里はやっと気がついた。
 第三者が特別に何もしなくても、当人同志はちゃんと分かっている。
 それでもまだまだもどかしい二人だけど、リアンという新しい仲間が加わって、二人はこれから一緒に歩んでいくのだろう。
 樹里は亜藍と奈美の間に割り込んで、二人の腕を自分の腕と絡ます。
「お兄ちゃんも、奈美ちゃんも大好き! 幼馴染っていいよね。なんか羨ましい」
「なんだよ、急に」
 亜藍は妹が馬鹿なことをいってるんだと知らせるために、奈美の顔を見て呆れるように笑っていた。
 奈美もそれに応えて微笑む。
 樹里は二人の手を取ってそしてそれを繋げた。
「おい、樹里、何すんだよ」
「いいじゃない。皆で一緒に手を繋ごう」
 亜藍と奈美の手は樹里の両手の中で包まれて繋がれる。
 亜藍も奈美も結局は樹里のされるがままになっていた。
 というより、それを利用して手が触れる事を少しいい事のように思っていた。
「ねえ、今からリアンの必要なもの買いに行こうか」
 樹里が提案する。
 二人は素直に「うん」と同意していた。
 樹里は、結局のところ、じれったい二人の橋渡しをしたのかもしれない。
 いや、それもまた絆の一つとして最初から組み込まれていたことだったのかもしれない。
 だけど自分が関係してようがなかろうが、こうやって身近で二人の笑顔を見ると樹里も幸せな気分になれた。
 一緒にこの二人と過ごせていいものを見せてもらったと満足する。
「次は私の番だ。実はさ、私ね、好きな人がいるんだ」
 樹里が勢い余って暴露する。
「どんな奴だ?」
 兄として亜藍は、少し心配な表情を向けて詳しく聞こうとする。
「そっか、樹里ちゃんも恋をしてるのか」
「あっ、奈美ちゃん、今、樹里ちゃんもって『も』が入った! それってやっぱり……」
 『お兄ちゃんのこと』と続けたかったのに、肝心なときに亜藍は最後まで聞こうとしなかった。
「それで、どんな奴が好きなんだよ。早く教えろ」
「もう、お兄ちゃんのバカ。やっぱり教えるのやめた」
 樹里は自分が繋ぎとめていた二人の手を突然離した。
 二人の手がすぐに離れなかったのを見て、しっかりと亜藍も奈美も手を繋いでいたことにクスッと笑った。
「なんだやっぱり意地張ってるだけか」
 その言葉で二人も恥ずかしくなり手が離れた。
「だから、その男はどんな奴なんだよ」
「樹里ちゃん、私には教えてくれるでしょ」
 樹里の気まぐれに亜藍と奈美は翻弄される。
 手を握り合ったことをかき消すように、何度も同じ質問をしていた。
 その様子を見て樹里は無理に二人をくっつけようとするお節介よりも、からかうことの方が何倍も楽しいことに気がついてしまう。
 そしてケタケタとにやついた痛快な笑いと共に、少し悪戯っぽい小悪魔的な目を二人に向けた。
「そしたら二人の好きな人を大きな声で今叫んでくれたら教える」
 これには亜藍も奈美も焦るように黙りこんでしまった。
「じゃあ私が代わりに言ってあげようか?」
 樹里が大きく息を吸ったとき、亜藍は「生意気だ」と樹里の口を押さえ、奈美はわざとらしくある方向に指を向けて「あれなんだろう」と誤魔化した。
 樹里は分かってたとはいえ、どこまでもやっぱりもどかしくてじれったいと思う気持ちはなくならなかった。
 亜藍に抑えられていた手を引っ剥がし、それに付き合ってやるかとため息を漏らす。
「さてと、リアンの首輪何色にしようかな。リアンてそういえば、オス? メス? どっちなんだろう。まあどっちでもいっか。二人ならどんな色にする?」
 話題を変えると、亜藍も奈美も何もなかったようにそれぞれの希望を言った。
 樹里は二人を引っ張るように先頭を歩く。
 青い空がどこまでも続いている。
 そこに飛行機雲がすーっと線を描いているのが目に入り、まるでそれはまっすぐに未来に向かっている絆のようだと樹里はいつまでも眺めていた。

《La fin》
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