第四章

 6
「お帰りなさい。迷いの館へ」
 気がつけば私の目の前に例のタキシードの男が立っていた。
 いつの間にかこの男に呼び寄せられて、また薄暗い場所に私はいた。いつも唐突だからびっくりする。
「あなたをここへ呼ぶのもこれが最後です。そしてこの迷いの館も消えてしまいます。今まで大変お疲れ様でした」
「あの、これでうまく行くんですか?」
 私はこの先の事が知りたい。
「この先は未定です。それはあなたが作る未来だからです」
「せめて、小渕司がどうなるのかくらい教えてほしい」
「私がここで言ったところで、あなたは何も覚えていません。それはその時、自分の目でお確かめ下さい」
「でも、私、小渕司と仲良くなれるか保障もないし、今の自分が消滅したら確かめようもないじゃない」
 利用されるだけされて、その後を放り投げされるみたいに思えてちょっとすねてしまう。
「あなたは何を恐れてるのですか?」
「それは、色んな事を体験して学んだ全てを忘れてしまうこと。やっぱり覚えていたい」
「だけど、二度目の未来を体験されたとき、一度目を覚えていましたが、そこで何を感じられました?」
 私はなんだかはっとした。
 一度目をやり直して二度目に得たものは全てがいい結果に繋がるというわけではなかった。
 念願の高校生活も入試で満点を取ったことで担任から不正と疑われて煙たくされて、一緒に住んでいたミッシェルとも気が合わなかった。
 記憶が残っていると前回とどうしても比べてしまう。
 そこで罪意識を感じたり懸念したりと苦しい思いも絶えなかった。
 私が答えられないでいると、タキシードの男はにこっと微笑んだ。
「真新しく自分の力で切り開いた方がいいと思いませんか? 未来がわからないから、人は希望を持って進めるのです。そしてその未来はあなたが選ぶことでどんどん変わって行く」
「だから正しい道を選ぶ……」
 私が小さい小渕司に言った言葉でもあった。
「恐れないで下さい。この時間軸にいるあなたも、希望を持ってそれに向かって今頑張ろうとしている」
 そうだ、思い出した。
 あのバドミントンの相手をしてくれてるのは、アメリカ帰りの近所のお姉さんだ。
 私にアメリカのお土産をくれて、アメリカのいろんな話をしてくれたんだった。
 英語が話せるお姉さんがすごくかっこよく見えて、私もお姉さんみたいになりたいって思ったんだった。
 お姉さんから英語の勉強の仕方を教えてもらったり、要らない英語の本をもらったりと、英語に対する思いが強くなった時だった。
 あの自分があるから、英語が好きになって目標ができたんだった。
 だけど……。
「私、ちゃんと正しい道に進めるかな。小渕君に会った時、また嫉妬したらどうしよう」
「大丈夫です。あなたが小渕司を助けたことで未来は少しだけ変わりました。あとはあなた次第です。それでは私はここで」
 タキシードの男が去ろうとしている。
「ちょっと待って!」
「まだ何か?」
「後ろをちょっと向いてほしいんだけど」
「後ろ?」
 タキシードの男は不思議な面持ちでくるっと後ろを向いた。
「これでよろしいでしょうか?」
「ああ、分かった!」
 私は思わず声に出して叫んでいた。
「はい?」
 タキシードの男は首を後ろに向けようと体を捻る。
 その彼の背中には白い糸で刺繍がされ、それはまるで羽のように見えた。
「ありがとう。タキシード姿の天使さん」
 私がそういうと、タキシードの男ははにかんだ笑顔を浮かべた。
「いえ、こちらこそありがとうございました。いずれ、またその時が来たらお会いしましょう。その時、お礼としてあなたの最後の願いを叶えて差し上げます」
 タキシードの男はフェードアウトしていく。
 その時、すなわち私も天国に旅立つ日のことだ。
 その日が来たら私も何か願いごとをするのだろうか。
 それはその時が来たらわかることなのだろう。だったら答えを知るのはその時でいい。
 タキシードの男が去っていくと、私は自分の家の屋根の上に立っていた。
 小学生の自分が楽しそうに近所のお姉さんとバドミントンをしているのを見下ろした。
「お姉ちゃん、ヒアユゴーって、『行くよ』って感じでいいの?」
 小さい私がバドミントンの羽をもって打とうとしているところだ。
 この時、音だけ真似したからHere you goってまだどう書くか知らなかった。
「ザッツライッ!」
 お姉ちゃんがその通りって英語で答えてくれてる。
「オッケー、ヒアユゴー」
 私も真似して、しかも舌をまいてそれらしく言おうとしている。
「ウップス!」
 お姉ちゃんが私の打った羽を打ち損ねた。
 ふたりとも楽しく笑っている。
「私も将来はお姉ちゃんみたいに英語話せるようになりたい」
「なれるよ。話せるようになりたいって思った人は絶対頑張る人だから話せるようになるよ。私もそうだったもん。だから頑張れ!」
 私はお姉さんの言葉を聞きながら、小学生の自分の中へと帰っていった。
「うん、がんばる!」
 少しだけまだ未来の自分が残って小さい自分と一緒に叫んでいた。
 明るい光に優しく包まれるようになんだかとても気持ちいい。
 私が消えていく訳ではない。抱いた思いは本来の自分の力と重なっていく。
 なんだか私頑張れそう――。
 頑張れ、私!

「ナルちゃん、ヒアユゴー」
 お姉ちゃんの打つサーブがヒューと私目がけて飛んできた。
 ひゃーと思いながら、ありったけの力を出して私は打ち返した。
 その時、不思議なほど力が出たような気がした。
 やれば私もできるんじゃないかな。そんな気持ちがして楽しくなってくる。
 青い空を見上げれば、さっきまでそこにいたような気分がして、私は益々わくわくしていた。
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