第二話


 夕方の優しい陽が差し込むころ、授業が終わったアネモネは屋敷を走り回って吾郎を探していた。
 吾郎は庭でダグの剣の相手をしているところだった。
「もう、お兄様、ゴロを独り占めなさってるんですね」
「おいおい、兄に何を怒るというんだ。稽古をつけてもらってるだけだ。ゴロは本当に腕がいい。こんな強い騎士をみたことないよ」
 額の汗を軽く手の甲でふき取り、ダグは満足げな顔をして吾郎に微笑んでいた。
「何を言う。ダグも中々の腕前だ。気を抜けばすぐにやられてしまうよ」
 それなりに男同士の友情の会話も忘れない。
 かつてこのような友と呼べるものもいなかった。
 自分よりも体が大きく身分もあるような男から尊敬されることもなかった。
 常に一人が基本で、挙句の果てには虐めの対象になっていたくらいだった。
 邪魔者扱いされて、辛い思いの連続が、男からも必要とされて頼りにされるこの気持ちは非常に嬉しくてたまらない。
 転生して異世界で暮らすこのヒーロー感は本物だった。
 それを自分は手に入れて、そして容姿、能力共に最強の男になっている。
 『なんというこのチート感。俺、ツエェェェー!』
 叫びたくなるほどに最高の気分だった。
 ネットで色んな転生異世界ものを読み漁ってきたが、その度に自分の中の願望を反映させていた。
 吾郎のような人物は幾万といて、同じように異世界の読み物に自分を投影しているから気に入らない展開になれば、中には容赦なく攻撃する輩もいた。
 そのうちの一人に吾郎も含まれる。
 でもこれは自分のための自分だけの世界。
 誰にも邪魔されずに、誰にも文句を言わせない。
 そして好き放題にここでは何でもできる。
 人生最高の転機。
「ゴロ、どうしたのですか? なんだかニヤニヤと笑みを浮かべられてますけど」
 アネモネに指摘されて、吾郎ははっとした。
 恥ずかしいところは見せられないと、夕日の陽を最大に受けるように向きを変えてクールな表情を作ってみた。
 アネモネも単純に吾郎の容姿にコロッと心奪われて、夢見る乙女になっていた。
「そろそろ、夕食の用意が出来る頃だ。父や母も先ほど戻ってきたみたいだ。屋敷の方が騒がしくなっている」
 ダグが稽古を終えたあとの充実感たっぷりに、剣を腰にしまった。
 見かけはゴツゴツと厳つくても、仲良くなればダグの人の良さが伝わってくる。
 吾郎はいい友と出会えた喜びを笑顔で伝え、気持ちいい汗をかいたといわんばかりに、赤く染まった空を仰いだ。
 そして一人この雰囲気に酔っていた。

 その晩、夕飯の知らせを受けてダイニングテーブルがある部屋へ案内されれば、そこにダグとアネモネの両親が座っていた。
 ダグから紹介を受け、両親も喜んで歓迎をしていた。
 席に案内され吾郎が座れば、次々と美味しそうな料理が運ばれてきた。
 豪華に見える鳥の丸焼きや、自家製のパンのような丸い形をしたもの、湯気がでている熱々のスープ、そして野菜や果物も一緒に並んだ。
 それらを召使いが取り分けてお皿に入れていく。
 周りが食べ出すと、吾郎も同じように手を動かして口に運んでいた。
 味は大味だったが、明るいこの食卓の雰囲気が味付けとなって美味しく感じる。
 よく喋るアネモネに、それをフォローするダグは美しい兄妹愛があったし、その子供達を優しく見守る母親と威厳を持ちながらも息子と娘の話をしっかりと聞いている父親も親の愛が感じられた。
 理想の家族愛と絆があり、そのような家族と共に食事をするのは見ていて吾郎も心が温かくなった。
 いつも母親が部屋の外に置いた食事を取っていた吾郎にはこの光景は眩しすぎるものがあった。
「しかし、いいときにゴロがやってきてくれたもんだ」
 ワインの入ったカップを手に取り父親は呟いた。
「父上、それはどういうことですか?」
 ダグが問いかける。
「いや、実は今日、国王から傭兵の依頼を受けてな、うちも加わることになったんだ」
「やだ、お父様、それって戦争になるってことですか?」
 アネモネが心配して目を潤わせた。
「何も心配することないのよ」
 母親が耳に心地いい声で優しくなだめる。
「噂でこの国に敵が攻めて来るかもしれないと情報が入ったらしい。それで万が一のときのために兵を増やして強化するということじゃ」
 少し懸念が入ったのか、その後父親は考え込んだ。
「もし、そんなことが起こったら俺とゴロで阻止してやる。なあ、ゴロ」
 ダグに急に振られて、吾郎はびっくりしたが、これもまた次への展開だと必ず自分は活躍して上手く事が運ぶと思うと、自信たっぷりに笑みを浮かべた。
「ああ、俺たちでこの国を守ろう」
「なんて頼もしいの」
 アネモネが感激していると、父親も母親も吾郎に感心していた。

 その遅い晩、吾郎は月明かりに誘われて、外の空気を吸いに庭をぶらぶらと歩いていた。
 とんとん拍子に事が運んでいく。
 そして間もなく敵が攻めて来る事態になることに、ここからが自分の正念場になると予測できた。
 やる気に燃えて月を見ていたとき、後ろから声がした。
「こんな夜遅くに散歩ですか?」
 振り向けばそこには家庭教師のピオニーがいた。
「あなたこそ、美しい女性が一人こんな夜更けに出歩いているなんて」
「まあ、お世辞がお上手ですこと」
「いえ、お世辞などではありません。本心から思ってのことです。この月夜の明かりに映えてまるで女神のようです」
 この世界では普段使ったことのない単語がすらすらと出てくることに吾郎自身もドキドキしていた。
 ピオニーはそれ以上言葉を発しなかったが、表情は柔らかで確かに口元が上がっていた。
 吾郎は軽く礼をして下がろうとしたが、ピオニーから「待って」と言われて足を止めた。
「折角ですから、一緒に月を眺めませんか。一人では寂しいと思っていたところです」
「そうですね、では遠慮なくご一緒に」
 吾郎はピオニーと肩を並べて夜空を仰いだ。
 この世界でも月は青白い光を暗闇に放ちて美しく輝いていた。
 吾郎がその光に照らされているピオニーの横顔を覗き見しようと首を動かせば、慌てるようにピオニーが視線をずらした。
 ピオニーの方が吾郎を先に見つめていた。
 焦るようなピオニーの態度が面白く、吾郎はくすっと笑って微笑むと、ピオニーは少しつんとした表情を夜空に向けたが、そのうち自分のしている事が疾うにばれていると思うとおかしくてぷっと吹き出してしまった。
「私とした事が、やられましたわ。ゴロは今夜の月よりも魅力的な殿方です。つい見とれてしまいましたの」
 正直に言われると、吾郎の方が照れくさくなってきた。
 美人で年上っぽい女性から好かれて、嬉しくないはずがない。
 思わず、また大胆にもピオニーの手を取り、軽く甲にキスをした。
「光栄でございます。ピオニー」
 吾郎が恭しく礼をすると、ピオニーは薄暗い中で浮き上がるように美しい桜色の頬になっていた。
 もう少し二人の距離が近づけば、キスへと繋がるかと思われたが、ピオニーはそれを望んでいるようなそわそわした態度を示したにも係わらず、吾郎はまだここでも行動に移さなかった。
 もっと上を目指したいと拘ってしまい、贅沢にも選り好みをしてしまった。
 必ず自分が満足する女性が登場するとどこかで確信していた。
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