第四話

 8
「どういうことだろうね。今頃あんな事訊いてくるなんて」
 シガラキから離れたところで、杏樹が問いかけるも、杏里は何も言いたくなく、適当に生返事でお茶を濁した。
 最初に見せられた男性の写真を思い出し、杏里はぼうっと考え込む。
 女性はただ夜逃げをしてアイデンティティを変えてどこかで生きている。それは杏里とヨッシーが手助けしたから間違いない。
 もし、あの写真の男が容疑者として疑われているとしたらどうしよう。
 しかし、本当の事は気安く言えないし、言ったところでなぜ知ってるのかと訊かれたら返答にも困ってしまう。
 かといって、もしあの男性が見つかって、間違って逮捕されたらどうなるのだろう。
 まさに冤罪──
 杏里は気になって仕方がなかった。
 あの写真の男は見るからにどこにでも居そうで目立たない風貌だった。
 側に居ても気にもとめずに、素通りしては存在感全く感じられないような顔立ちだった。
 それでもなぜか杏里の脳裏から離れなかった。
 
 その日、ガチャガチャを求めてモールのゲームセンターに行ってみたが、すでに目当てのものがなく、新しいシリーズに変わっていた。
 流行や人気にも左右され、常に商品の移り変わりが激しく、ある時期を過ぎると同じものを探すのは困難になる。
「なんでもうないのよ」
 かなり落胆する姉をなんとか慰めようと、杏里は四苦八苦した。
「お姉ちゃん、オークションであるかもしれない。家帰って、ネットで探そうか、ね、ねっ」
 そんな時、姉の携帯電話が鳴り出した。
 杏樹はそれを確認するや否や急に顔を綻ばせた。
 通話ボタンを押し、軽やかな声で返事をしながら、杏里から少し距離を取って話し出した。
 その姿から、相手は隆道だと杏里には分かった。
 その時、杏里は虚ろに姉を見てしまう。
 隆道が整形をしていることを知らずに、楽しそうに話している姉の姿が哀れに思えてしまった。
 通話を終えた杏樹が振り返り、今度はそんな妹の空虚な顔を見てしまう。
「あら、そんな顔をしなくても。もしかして羨ましくて、面白くないとか?」
 隆道と話した後の杏樹はすっかり元気を取り戻し、優越感に溢れて杏里をからかってしまった。
 杏里は首を横に振り、なんとか笑みを浮かべるも、それもわざとらしくて、姉にはひがんでいるようにしか見えていない。
 それが杏里を一層悲しくさせ、この先、姉が何も知らずに隆道と結婚することになれば、心から祝福できないように思えてならなかった。
「お姉ちゃん、隆道さんはやめた方がいいんじゃないかな」
 気持ちを抑えられず、正直に口から出てしまった。
「あら、やっぱり嫉妬なのね。私があまりにもかっこいい人と知り合ったから、悔しいのね」
「ち、違う。お姉ちゃんのことが心配で」
「あら、もしかしてシスコンなの? やだ、杏里、可愛い」
 何を言っても、浮かれている杏樹には無駄だった。
 杏里はどうする事もできなく、やるせない思いを抱いて奥歯を噛みしめる。
「また今晩、隆道さんが家に寄ってくれるって」
「そう……」
「これから買い物行こうか。夕飯何にしようかな。杏里は何が食べたい?」
「お姉ちゃんに任せる」
 うきうきしている杏樹の顔を見れば見るほど、杏里はどんどん落ち込んでいく。
 ほんの数日前ならば、嫉妬して違う意味でモヤモヤしていただろうが、この時のモヤモヤも相当酷いものだった。

 その晩、隆道のために一生懸命料理をしている姉の後姿を見ながら杏里が溜息をついた時、ドアベルが部屋に響いた。
「隆道さんだわ。今手が離せないから、杏里お願い」
 杏里は気乗りしないまま、玄関のドアを開けた。
 だがそこにはシガラキが立っていた。
「またすみません。もう一つ見てもらいたいものがありまして、今お時間いいですか?」
「えっ、そ、その」
 すると奥から姉が「早く上がってもらって」とすっかり隆道が来たと思ったために、気易く言ってしまった。
「そうですか、それじゃお邪魔します」
「あの、ちょっと、シガラキさん、ち、違うん……です」
 と杏里が最後まで言う暇もなく、シガラキは積極的に靴を脱いで上がり込んでしまった。
 その後、台所に入ってきたシガラキを見て、姉はびっくりして暫し放心状態になっていた。
「ご飯の支度の最中だったんですか。これはおいしそうですね」
 シガラキは食卓に用意されていたおかずを見て唾を飲み込む。
「あれ、三人分のお茶碗がありますけど、誰か来られる予定なんですか?」
 その時、タイミングよくドアベルが鳴り、今度こそ隆道がやってきた。
 杏樹はすぐさま隆道を迎えに玄関に走りよる。そこで暫く二人の話し合う声がゴモゴモと聞こえていた。
 杏里はシガラキを前にして気まずい思いを抱いているというのに、シガラキは厚かましくも顔色一つ変えずにでんとそこで構えていた。
 杏樹と隆道が現われても、気にすることなく、シガラキは堂々と隆道に挨拶していた。
「これはこれは、皆さんでお食事だったんですね」
 まるで自分も加えてほしいというように催促した目を向けた。
 杏樹と隆道は気分を害していたが、杏里は隆道を見るのが辛く、気持ちを逸らしてくれるシガラキが居てくれた方がいいように思え、空いていた席をシガラキに勧めた。
「よかったらシガラキさんもご一緒にいかがですか。折角ですし」
 杏里の言葉に杏樹も隆道も不快になるも、はっきりと嫌だとも言えずに、その状況に流されてしまった。
「そうですか、それじゃお言葉に甘えて、いや、申し訳ないな」
 シガラキも恥じも外聞もなく、さっさと席につき、杏里は予備のお茶碗とお箸を用意して、シガラキの前に置いた。
 シガラキの隣の席に杏里も腰を落ち着け、真正面に隆道も座った。
 杏樹はまだ食事の仕度途中なので、背中を向けてることをいいことに、押し掛けて来たシガラキに不満を抱いて頬を膨らませていた。
「いや、かっこいい人ですね。お姉さんの彼氏ですか」
「そうです。茨木隆道さんです。こちらはこのアパートに引っ越してこられたばかりのシガラキさん。警察の方なんだって」
 杏里は無難に二人を紹介をすると、隆道は警察という言葉にビクッと肩を跳ねさせた。
 いきなり、警察が来れば誰でもびっくりしてしまう。
「茨木隆道…… さんですか。これは初めまして」
 シガラキはライバルを見るような鋭い目つきを向けて、隆道に頭を下げた。
 隆道もさりげなく同じように返すが、どこか落ちつかないでいた。
「それで、シガラキさん、一体何を見ればいいんでしょうか」
 杏里は前に座っている隆道と顔を合わせたくない分、シガラキと喋ろうと積極的になっていた。
「いえね、もう一枚の写真がありまして、これをちょっと見て下さい」
 シガラキがその写真を懐から出した時、隆道の目も杏里の目も見開いた。
 それは、街の雑踏で偶然に撮られた物を引き伸ばした写真だが、そこには隆道の整形前の顔が写っていた。
 シガラキの鋭い視線が杏里と隆道に交互に行き交う。
 杏里も隆道ももちろん知ってるけど、正直に言う訳がなく、知らないと白を切った。
 そこへ、杏樹もできたての料理の皿をテーブルに置き、写真に目を通した。
「何、この目つきの悪い男性。凶悪な感じで悪そう。もしかして、あの事件の殺人犯ですか?」
 何も知らない杏樹だけに、正直に自分の感想を述べてしまい、杏里はヒヤッとしながら、チラリと隆道を一瞥した。
 隆道はどこかしらばくれようとしてるが、顔の筋肉がピクリとも動かないのが、却って必死に感情を押し殺しているように見え、わざとらしかった。
 相当動揺している。
 少なくとも真実を知っている杏里にはそう思えた。
「お姉ちゃん、犯人って、何も決め付ける事ないじゃない。何かを知ってる人なのかも」
「杏里さんでしたね、どうして、そう思われました?」
「いや、普通疑う方が失礼じゃないですか。朝も二人の写真見せてもらいましたけど、シガラキさんが何を調べてるのかわからないだけに、好き勝手言うのもいけないんじゃないでしょうか」
 シガラキは隆道にも見てもらおうと、朝見せた二枚の写真をテーブルに置いた。
 隆道は手にとってそれらを見るも、知らないを突き通した。
「これって、もしかして三角関係か何かの末に殺人事件が起こったんですか?」
 また姉の杏樹がいい加減なことを言った。
 シガラキは苦笑いをして、言葉を濁して詳しくは教えてくれなかった。
 隆道は平常心を保って静かにしている。
 杏里は隆道を一瞥する。
 真実を隠し通そうとしている隆道を見つめ、杏里は考え込んだ。
 あの時、殺人事件など起こらなかった。
 それなのに シガラキは死体なき殺人事件を追っている。
 それも勘違いして、全く関係のない男を容疑者と見なしているようだった。
 あのマンションに住んでいた住人を、参考人程度にシガラキは探してるだけに過ぎないのだろうが、隆道も整形前の自分の写真を見せられて動揺し、それがバレないかビクビクしている。
 どうにかあの女性が夜逃げしたことを教えてやりたいとも思うが、杏里もまたいい方法がわからなかった。
 しつこそうなシガラキの目は、一度絡みついたら離れなさそうに、刑事独特のねちっこさがある。
 これ以上係わり合うのも嫌だった。
 そこでシガラキの携帯の着メロが鳴り響き、シガラキはそれをチラリと見て操作し音楽を止めた。
「折角夕食に誘っていただいたのですが、用事が入りました。また今度の機会ということで。今日は大変失礼しました」
 椅子から立ち上がると、丁寧にお辞儀をし、台所から去っていく。
 杏里はつい追いかけて、玄関先へと一緒に向かった。
 気分を害していた杏樹と隆道はそのまま無視をしていた。
 シガラキが靴を履き、ドアノブに手を掛けたとき、杏里は声を掛けた。
「あの、一体この事件の真相はどこまで分かってるんですか?」
「まだなんとも言えません」
 その時、杏里はふと疑問に思った。
「だけど、なぜ、私たち姉妹に写真を見せて質問するんですか。私たち全く関係ない一般の市民ですけど」
「実は……」
 シガラキが声を落として、家の奥を気にしながら杏里に囁いた。
「茨木隆道さんを探しているんです」
 あの整形前の隆道の写真が脳裏に浮かぶ。
「そしたら、杏樹さんと付き合っているっていう情報が入りまして、それで色々と訊いてた訳なんですけど、でも肝心の茨木道隆さんと顔が全く違うから、戸惑ってる訳なんです」
 整形してあれだけ顔が変わっていれば それは戸惑うだろう。本当は本人なのに、整形の事は言えない。
「でもなぜ探しているんですか。やはり殺人事件の犯人としてですか?」
「いえ、そんな事ありません。茨木道隆さんは犯人でもなんでもないです。ただ行方不明になられてるので、探してるだけです」
「えっ、あっ、そうなんですか」
 思わず、心の中であれが本人なのにと呟いてしまう。
 顔を整形しただけに、隆道は身内にも会いにいけなくなっているのかもしれない。
「とにかくお邪魔しました。また何かありましたら宜しくお願いします」
 複雑な思いでシガラキを杏里は見送った。
 これは一体どうすべきなのか。隆道なのに、整形で隆道じゃないと思われて、ずっと行方不明のままでいいのだろうか。
 杏里はどうしたらいいのか、眉間に皺を寄せながら食卓に戻った。
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