第一章

10
 希莉に鬱陶しいといわれた朝の始まりは、心の枷(かせ)となり私をずっと苦しめた。
 まだ一時間目の授業の最中は根本的な問題に気がつかず、一人悶々としているだけでよかったが、一時間目が終わった直後の休み時間、自分が窮地に深く落ちていたことにびっくりした。
 授業が終わって二人とどう接して良いか逡巡し、成り行きに任せていたら、私は一人ぼっちになっていたのだった。
 いつも側にいた二人が、この時どちらも私を避けた。
 もしかしたら、少しの間をおけば、お互い水に流してまた元にもどれるかもと安易に期待していた自分だったが、甘かった。
 私が恥じも外聞もなく、希莉に近づいてしつこく食い下がれば事態はまた違ったのかもしれないが、いちどタイミングを逃すとその後は気まずさがどんどん膨れ上がり、しまいに近づくのが怖いほど臆病になって動けなくなってしまった。
 この後始末の悪さがこじれていくのが目に見える。ぎこちなく行動範囲が狭まって、不協和音を奏でてしまう。
 希莉に一方的に責められて、私は言い合いもしてないというのに、あっと言う間に仲たがいになってしまった。
 柚実はやりにくそうに、私と希莉を交互に見てるが、溜息を漏らすだけで口は出さなかった。
 結局休み時間はすぐに終わり、二時間目が始まるが、その後もずっと同じ状態だった。
 柚実はどちらにも肩入れすることがなかったので、一方的にどちらかに着くということをしないが、とてもやりにくそうで、一定の距離をとって私達二人の様子を見ていた。
 柚実がいたのでお昼はかろうじて集まり、他のグループも混じって一緒に食べたが、希莉とは席を適度に離して口を交わすことは絶対なかった。
 少しでもこの状況を改善したいと思いつつも、一方的に責められて、謝っても鬱陶しいと言われたらどうする事もできなかった。
 なぜ希莉は水に流してくれないのだろうか。
 私はいつだって希莉が何か間違ったことをしてもすぐに許してきたし、それに対して文句を言ったことも否定したこともない。
 そういう不公平さが、時折私を苛立たせて投げやりな感情もでてきてしまう。
 複雑な思いを抱えて、遠くから希莉の様子を伺えば、希莉は頑なに心閉ざしてしまうようだった。
 これ以上希莉に近づくのが怖くて、私は動きを封じ込められたみたいにとうとう孤立してしまった。
 耐えられなくなって用事を装い、昼休みお弁当を食べ終わると私は一人で教室を抜け出した。
 これと言って目的もなく彷徨って廊下を歩いていると、後ろから肩を叩かれた。
「よぉ、遠山、なんか元気ないけど、大丈夫か」
 驚いて振り返った先には近江君がいた。
「えっ?」
 目を大きく見開きキョトンとしてる私を見て、近江君はいたずらっぽく笑みを浮かべた。
「どこ行くんだ?」
「ちょっとそこまで……」
「食後の散歩中か?」
「そ、そうかな」
 自分でもどう答えていいかわからないので、曖昧に返すしかなかった。
「だったら一緒に図書室行かないか」
 近江君は私の返事を待たずに、さっさと先を歩き出した。
 私が戸惑っていると、再び振り返って顎で指図する。その仕草はちょっと乱暴ぽかった。
 私は圧倒されるままに結局はついていった。
 図書室に来るのは初めてだった。
 一階の校舎の一番端っこに広くその場所は取られていて、本棚がずらっと並んで、置いている本の数も多い。
 大きな本屋さんに負けないくらいに本が陳列されていた。
 大した本などないだろうとイメージ的に思っていたが、新刊のコーナーを不意にみれば私でも知っているような話題の本があった。
「遠山はどんな本を読むんだ」
「えっ? それは、漫画が多いかも」
 近江君はクスクス笑っていた。
「やっぱりお前は正直だな。ここで見栄をはって、今流行の本のタイトルでも言うかなって思ってたんだけどな」
「私、あまり本を読まないから」
「俺も実は去年まではそうだった。でも急に目覚めちまってさ、意地なって読み出したんだ」
 近江君は奥の本棚に進み、そこで読みたい本を探しだし、それを手にしてパラパラとページをめくった。
 周りには誰も人が居ず、本棚に挟まれた狭い場所で二人きりだった。
「近江君って休み時間いつも本を読んでるね」
「まあね。俺には時間があまりないからさ、休み時間でも利用しないとね」
「どんな本を読んでるの?」
「ん? まあ、色々さ。興味を持ったら片っ端から読むし、小説から参考書までありとあらゆるもの」
「それじゃ、近江君のお薦めは?」
「そうだね、これかな」
 近江君が棚から取り出した本は英単語集だった。
 私は何も言えなくて暫く沈黙した。
「なんて嘘。ちょっと見栄を張りたかった」
「だけど、近江君は本当に勉強できるじゃない」
「さあ、どうかな。自分では頑張ってるけど、俺は勉強できるタイプではない。気を緩めたらすぐに脱落するような人間さ」
「私はそうは思わないけど」
「それは遠山が俺の事を何も知らないから、上辺だけ見て判断してるってことさ。もっと内面をみたら、人それぞれ抱いていたイメージと違う部分が現れるぞ」
「えっ?」
「遠山は無理しすぎて、本当の事を知ろうとしてないだけさ。まあ、俺も偉そうな事を言えた義理じゃないけどな。俺も最近まではそうだったしな」
 一人ペラペラと自分の事を話す近江君を見たのは、これが初めてかもしれない。
 近江君は持っていた本をまた本棚に戻し、そして私と向き合った。
「俺さ、なんだかわからないんだけど、お前の事が気になるんだよ」
「えっ?」
 体の芯からドキッとしてしまった。
「昨日も俺が虐められてると思ってあんな行動を起こしただろ。あんな風にされたら、余計に気になるじゃないか」
 ぶっきら棒にまっすぐに見つめられると迫力を感じて、どう対処して良いのかわからない。
「ご、ごめん」
「だからなんでそこで謝るんだよ。お前は常に人の顔色を見すぎだ。もっと堂々としたらいい。上辺ばかり気にしてたら後で後悔するぞ」
 近江君の言葉がなぜか胸に突き刺さった。
 自分でも自覚があったから、はっきりとそんな風に言われると堪らなく苦しくなった。
「笹山となんかあったんだろ」
「あっ、そ、それは」
 やはり見られていた。
「俺がとやかくいうことじゃないけども、遠山は笹山の家来みたいだぞ」
 やっぱり自分に合ってないと言いたいんだろう。私は惨めな気持ちになりながら、うつむいてしまった。
「だけど、お前の気持ちもわからないでもないけどな。時には無理をしたくもなるだろうし、調子に乗るときもある。実は俺もそうだった」
「えっ?」
 近江君は何が言いたいのだろうか。このまま言われるばかりも癪だったので私も質問してみた。
「近江君はどうしていつも一人でいるの?」
「ん? いつも一人? まあ、あの状態ではそう見られてもしかたないな」
「もしかしてクラスで虐められてるの?」
「いつも虐めに繋げてくれるけど、そんな事はない。話せば皆気さくに相手してくれるぜ。遠山だって、ほら、今俺と話してるし」
「あっ、そ、そうだけど。だけど私にはいつも一人に見える」
「俺は気にしてないけどな。それよりもやらなくっちゃ行けない事が一杯あって、自分中心なだけだ」
「友達を作らないで寂しくないの?」
「友達ならいるぜ。ほら、やっぱり上辺だけで判断しすぎてる。まあいいけどな。俺も色々隠したいこともあるし。俺の事を心配するよりも、まずは自分の事心配しろ。殻に閉じこもりすぎると、よけいに周りが怖くなっちまって、表面的にしか物事が見られないぜ」
「別に近江君の事を心配してる訳じゃないけど……」
 といいかけたとき、この問題の一番の原因は近江君が関係していた。
 自分が勝手に近江君を助けようとして、こんな事になってしまった。
 それなのに、今私は近江君に説教され、ことごとく全てが空回りしている。自分でも何をしてるのかわからなかった。
 近江君は時折本棚から本を選んでいたが、結局本を借りることはなかった。私と話したいがためにここに来たのだろうか。
 とにかく近江君は私の事を気にかけてくれていたのだと思う。
 だけど、却って見透かされていているのが恥かしい。
「そろそろ教室に戻らないとな」
 私達はまた一緒に自分のクラスへ戻っていく。二人肩を並べて廊下を歩くのは変な気分だった。
「なあ、ブンジってどんな猫だ?」
 突然に投げかけられた質問。でもブンジの事を聞かれるのはなんだか嬉しい。
「えっと、灰色のトラ猫って言えばいいのかな」
「見かけじゃなくて性格の事。結構凶暴?」
「ううん、そんな事全然ない。ブンジは犬の性格に近いかも。いつも側に来てくれて、私に甘えてくれる。すごく可愛くて、最高な猫」
 私は自信を持って力強く言っていた。
「そっか。いい猫なんだ。だけど猫の事を話している遠山は生き生きしてる」
「えっ? そ、そうかな」
 取り繕って近江君に振り返れば、近江君は気障っぽく笑っていた。
 教室に戻り、再び自分の席に着けば、近江君は誰よりも早く教科書を開いて勉強モードになっていた。
 先ほど一緒に居たことが嘘のように、昼休みは過ぎ去った。
 近江君が私と昼休みを過ごした。貴重な時間なのに、私に気を遣ってくれたことは素直に嬉しい。暫しそれに捉われて、心が軽くなる。
 でも希莉の姿が目に入った時、それはすぐに消えうせ、再び現実に引き戻された。
 例のあの不幸の手紙のせいで、がたがたと崩れてしまったこの末路。あの手紙をどうすればいいだろうか。
 返すにも出渕先輩になんて説明したらいいのだろう。ブンジのゲロまで付いてしまってるだけに、お返しするのも恐ろしい。
 かといって、いつまでも持っているわけにもいかないし、本当にどうしよう。
 それに、近江君を虐めないでと約束したことはやっぱり無効になってしまうのだろうか。
 頭の中が色んな事でぐるぐるとしてしまう。
 私だって文句が言えるのならいいたい。
 『あなたの手紙のせいで希莉と仲が悪くなりました。責任取って下さい』
 上級生にそんな事言えるわけもなく、あの厳つい体つきと顔を思い出せば、私の方が手紙を大切にしなかったことで責められそうだった。
 『お前が、それを汚したから汚くて受け入れられなかったんだろう。この落とし前どうつけるんだよ』
 これが原因で近江君が再び虐められたら、私の責任だ。
 こんな事一人で背負うには重過ぎる。誰か助けて欲しい。誰でもいいから助けて。
 誰か〜
 藁をも掴む思いで、助けてくれる人はないかと思った時、何気に草壁先輩の事がぽっと頭に浮かぶのだった。
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