第一章


 人の出入りが多い、駅前。行き交う沢山の人に飲まれて、誰が何をしているかなど一々気にかける人はいず、堂々と公然の場でそれは起こった。
 大きな影が私に降りかかり、私はその人物と対峙している。その体の大きさに私は圧倒され怯んでしまう。上向きに捉えた私の目線の先には、近江君を脅していた上級生が、今度は私の前に立っている。
 近江君と私が入れ替わった、あの虐めの構図がこの時再現されていた。さらに取り巻きの上級生たちも私を取り囲み、にやついている。
 こんなにピンチな状況なのに、誰も気に留めず周りの人の波は絶えず動いて、そしてざわめきがこの状況を見えなくしていた。
 要するに同じ制服同士だから友達と思われて、却って不自然に思われなかった。
 しかし、私にとっては驚きすぎて動けない。生きたここちもしない。走って逃げ出したいのに、足が全く動いてくれない。
 ないないづくしでありえない。
 体格がいいその上級生が、私を見下ろしている様は、まるで蛇と蛙の例えのように、いや、正確に表現したらゴリラと狸かも。そんな遭遇が自然界にないように、この場合も目を疑うくらいに全くありえない。
 しかし、あの時トイレに行っておいてよかった。
 行ってなかったらもらしてたかも。
 いやいや、トイレなんかに行ってしまったからこうなってしまっただけに、どっちがよかったのかなんて矛盾する。
 この複雑な心境で気が遠くなりそうになってる時、目の前のゴリラ、いや、上級生が口を開いた。
「お前、ハルと同じクラスなのか?」
 ハル──。
 キョトンとしているとじれったそうにもう一度訊いて来た。
「近江晴人、さっきあんたが引っ張っていった人物だ」
 近江君の名前。晴人(はるひと)だからハル。
 この人は近江君の事を愛称で呼んでいる。
 母音が続くオウミという発音よりも、ハルの方が断然言い易い。ハルという響きはこんな状況であってもなぜだか私の耳には心地良いものを感じた。
 私はコクリと頷いた。
「あんた、名前はなんていうんだ?」
「遠山千咲都」
 どこから声がでたのだろうと思うくらい、か細く小さく搾り出された。
「チサトちゃんか。あんたハルと仲がいいのか?」
 軽々しくチサトちゃんって呼ばれてしまって、びっくりしたのもあるが、私は咄嗟に首を横に思いっきり振った。
「そんなに否定しなくてもいいじゃないか。それとも俺が怖いのか。参ったな。俺は二年一組の出渕ってんだ。出渕祥真(でぶちしょうま)」
「出渕先輩……」
 先ほど近江君を脅していたが、私と話す時は少し軟化している。
「あのさ、ちょっと頼まれてくれないか」
「えっ?」
「あんたのクラスに笹山さんっていう女の子がいるだろ」
「えっ、希莉のこと?」
「おっ、もしかして友達かい?」
 また頷いた。
「それなら話は早い。これを渡してくれないかな」
 出渕先輩は肩に掛けていたカバンから封筒を出した。
 それを私に突き出して、受け取れという。
 私は圧倒されて、押し付けられるままそれを手にしてしまった。
「あ、あの」
「何も心配することない。それを渡してくれたらわかるから」
「ちょっと待って下さい。希莉はこういうことされるのが嫌いで、その、こ、困ります」
「おいおい、あんたも俺の頼みを聞いてくれないのか。どいつもコイツも頑固な奴ばかりだ」
 舌打ちまで聞こえて、まさに不機嫌になっていた。
「もしかして、さっき近江君に言っていたのはこの事なんですか」
「ああ、そうだ。アイツならやってくれると思ったんだ。それなのに生意気になりやがって、許せねぇな。この落とし前は今度つけてやる」
 この人は何かあれば近江君を利用しようとしているに違いない。
 このままでは、近江君はずっと目を付けられてしまう。どこかで断ち切らないと負の連鎖はずっと続く。
 私の頭の中では、近江君を魔の手から遠ざけるにはどうすればいいのか、ぐるぐると考えが舞っていた。
 渡された手紙を見つめていると、自分がすべきぐっとする気持ちが込みあがってくる。
 独りよがりにその気持ちに舞い上がり、私は決心した。
「あの、わかりました。この手紙、希莉に渡します。だから、近江君にこれ以上付きまとうのは止めてくれますか」
「付きまとう? はぁ?」
 聞き捨てならなかった時に反応する呆れた声だった。
 思わず身が縮まる。それでも後には引けない思いで腹から声を出した。
「だ、だからその、彼を、近江君を虐めないで下さい」
 一瞬、間が空いたが、その後出渕先輩は大笑いし、周りにいた男子生徒も一緒に笑い出した。
 私のようなか弱い女が、近江君を必死に庇うのがおもしろかったのだろうか。
 ここで凄みをきかされて、不機嫌になられるよりはましな対応だったが。
「そうだな。虐めるのはあまりにもかわいそうだしな。わかった言うこと聞いてやるよ。そしたら、それを渡してくれるんだな」
「はい」
 意外にも交渉が成立した。これで近江君を助けられる。
 だけど、その一方で今度は希莉にこの手紙を渡さなければならなくなった。
 希莉に訳を話したら、わかってもらえるかもしれないけど、近江君が虐められてることを話していいのだろうか。
 近江君は強がってるのか、私の前ではそんな事ないように振舞っていた。
 もしかしたらそういうことを人に知られるのが恥かしいから、あの時無理して笑っていたのかもしれない。だから私がとやかく人に話してもいいのだろうか。もし勝手に話したら近江君は嫌がるのかもしれない。
 折角、出渕先輩は近江君を虐めることを止めると約束してくれて事が収まりそうなのに、私の行動一つで変にこじれては事態が悪化する可能性だってある。
 ここは穏便に進めるにも、希莉に詳しい訳も言わずに頼みこむのがいいのかもしれない。
 希莉がこれを受け取って、その後は希莉が直接断れば、私は渡したという責任は果たすし、約束は約束だから出渕先輩もそう簡単に撤回できないだろう。結果まで責任は持たなくていいのだから。
 たかが手紙一つ、そんなに深刻になることないし、きっと簡単に済む。
 それに押し付けられて、今更「いやです」ともいえないし、もうやるしか選択が残ってないような気がしてきた。
 色々と頭の中で私の勝手な思惑が巡って行く。
 出渕先輩は私という協力者ができたことで、そのとき機嫌よく笑っていた。
 希莉について、色々と私に質問してきて、私が仲のいい友達だとわかると、さらにご満悦だった。
 でも私はこの状況が居心地悪く、希莉を利用していることが後ろめたい。でも、希莉は私の友達だし、いつだって希莉の役立つことをしてきたんだから、私だってきっと許されるべきだ。
 この時、色々と考えていた事もあり、集中できず、出渕先輩を前に不自然で困ったような顔をして対応していたんだと思う。それを見かねたのか、誰かが割り込んで私に助け舟を向けた。
「おい、お前らそこで女の子困らせて何してんだ」
「おっ、草壁。別に困らせてなんかいねぇよ。ちょっと用事を頼んでるだけだ」
「用事を頼んでることが嫌がらせじゃないか。君、大丈夫かい?」
 急に話を振られて「大丈夫です」としかいえなかった。本当は大丈夫じゃないけど。
「だけど草壁、こんな時間に帰宅か? 珍しいな。部活はもう終わったのか?」
 出渕先輩はなんとか気を紛らわせようと話を逸らす。
「今日はちょっと用事があって、早めに切り上げてきた。それより、その子は誰なんだ?」
 草壁と呼ばれた男子生徒は私を不思議そうに見ていた。
「この子はチサトちゃんっていって、ハルの友達なんだって」
「いえ、その、友達って訳じゃないんですけど」
 手のひらをひらひらとして私は否定した。
「へぇ、ハルの友達か。ふーん」
「いや、だからその、同じクラスなだけで、友達では……」
 私が否定しているのに、聞いてる様子はなかった。
「それで、ハルはちゃんとクラスになじんでるのか」
「えっ、その、それは」
 いつも一人でボッチだとは言えない。
「まあいいけどさ、それより出渕がなんか迷惑掛けてんじゃないのか。なんだか怖がってるみたいだけど」
 もちろんそうなんですけど、出渕先輩の顔を見ると何も言うなと首を横に振っていた。
 私は返答に困って黙りながら、草壁先輩の顔を見つめた。
 良く見れば、髪の色が少し抜けて赤茶色い。
 モデル並みのすらりとした長身で、精悍な顔つきだった。
 出渕先輩ががっしりとした体格で、顔もゴリラ系統だから、二人一緒に並ぶと余計に引き立ってかっこよく見える。
「とにかくだ、もし、出渕に変なことされたら、いつでもこの俺に言ってくれ。コイツ、ガサツだから自分では気がついてないけど、結構失礼なことするしな」
 やっぱり、この出渕先輩はいじめっ子の素質があると納得してしまう。これだけ体ががっしりとしてたら、格闘技でもやってそうで、強く見える。
 草壁先輩は顔もいいけど、性格もよさそう。もしかしたら、話のわかる人かもしれない。
 万が一の時は、出渕先輩を懲らしめてくれそうな気がした。
 草壁先輩の爽やかな笑顔が、物腰柔らかそうに、すごく親しみを感じる。安心感を感じた時、つい頼れそうに思って少しだけ詳しい情報が欲しくなった。
「あの、草壁先輩」
「ん?」
「クラスは何組ですか」
「二年五組だけど」
 ゴリラ、じゃなかった、出渕先輩とはクラスが違うんだ。
「皆さんお友達なんですか」
「まあな、結構気の合う仲間かな。そんな事聞いてどうしたんだい?」
「いえ、別に。とにかくどうぞ宜しくお願いします。それじゃ私は急ぎますので失礼します」
 何を宜しくするのかわからないけど、勢いで頭を下げた。
 そしてその後は逃げるように駅の中に入っていった。
 いきなりな展開と、急激に走ったことで私の心臓はドキドキと激しく高鳴っていた。やっと一人になって落ち着いた時、一息つけることに安堵した。
 だが、出渕先輩から預かった白い封筒を見るや否や、それが不安の響きを再びもたらす。
「まだまだ問題が続く。えらいことになっちゃったな」
 これを希莉に渡す時が怖かった。
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