第一章


「何、その汚い手紙」
 染みが目立つその手紙の破壊力は半端じゃなかった。
 目の前に差し出された手紙と私を交互に見て、希莉は訝しげに眉根を寄せた。
「あのさ」
 何から説明すればいいのだろう。私は言葉に詰まり、恐る恐る上目使いに希莉を見つめる。
「どうしたのよ。それ一体何なの?」
 希莉の心証はすでによくない。
 しかし後にも引けない。
「実は……」
 悪い事をして母親を恐れる子供のように、私は身を縮こませ腹を括り、あとは一気に話し込む。
「昨日、放課後に二年の上級生からこれを希莉に渡して欲しいって頼まれてさ」
「えっ? 二年生から? どうして千咲都に?」
「それが、たまたま二年生に会って希莉の事聞かれて、それで偶然希莉の友達だったから……」
 近江君の虐めの問題は飛ばして、何とか伝えようとしどろもどろになってしまった。
「それで、言付かったってこと? こんな汚い手紙を?」
「あっ、それが、この汚れは私が悪いの。その、昨晩うちの猫がアクシデントでこの手紙の上に吐いちゃって……」
「えー!!」
 これには柚実もびっくりして一緒に叫んでいた
「ちょっと、猫が吐いたって…… それは仕方がないとしても、なんでそんなに簡単にそんな事引き受けちゃうのよ。それで差出人は誰?」
 机の上に置いた手紙を、とても汚さそうに指先でつまんで裏を向けた。
 そこには出渕祥真と差出人の名前が書かれていた。
 それを見て、希莉は露骨に嫌な顔をした。
「この人、ゴリラみたいな人でしょ。知ってる。駅でさ、他の学校の男子生徒からナンパされて断ってもしつこくてさ、それで困ってたら同じ制服だったからこ の人が助けてくれたんだ。それがあるから邪険にはできなくて、会えば挨拶はしてたんだけど、それがなんか勘違いされたみたいでそれからは避けてたんだ」
「助けた事で惚れられたと勘違いしたケースね」
 ここで柚実がボソッと言った。
 希莉はため息をついて、私の顔を見つめた。
「悪いけど、返してきて」
 やっぱり思った通りの結果だった。
「でも、それなら希莉がこれを受け取ってはっきりと言えばどうかな」
「ちょっと待ってよ。千咲都が勝手に預かってきたんでしょ。責任は千咲都じゃないの? しかも汚れてるんだよ、この手紙。私がこのまま返したら、私が汚して返したって事になって、逆恨みされてストーカにでもなったらどうすんのよ」
 もちろん希莉の言うことは一理あった。でも私もここまで来たら後には引けない。
「そしたらさ、読むだけ読んで」
「嫌よ。封筒を開封するって事は気になるからって事になるんだよ。なんで中身を確認しなくっちゃだめなの。こういうのはきっぱりと返さないといけないの」
 これも正論だった。
 しかし私もつい意地になってしまい、また余計な事を口にしてしまう。
「だけど、ちょうどいいチャンスだと思わない? 彼氏にヤキモチ妬かせられるかも」
「千咲都! いい加減にして。そんな事したら、手紙をくれた人に益々隙を見せてしまうし、余計に勘違いさせてしまうじゃない。それに、そんな安っぽいこと本気で私がすると思う? 私、そういうことするの大嫌い」
 希莉はとうとう怒ってしまった。
「まあ、まあ、希莉落ち着いて」
 柚実が間に入ってこの状況を収拾しようと、希莉をなだめている。合間に私をチラ見して、困り果てた表情を向け呆れていた。
 私は希莉がここまで怒るとは思わず、しゅんとうな垂れて萎縮してしまった。
 それとは対照的に、机の上の汚れた手紙が妙に白く浮き上がって膨張しているように見えるようだった。
「ちょっと二人とも落ち着いて。希莉が怒るのもわかる。これは千咲都が責任持って返したほうがいい。だけどさ、千咲都が見知らぬ男性からこんな事頼まれてそれを引き受けるなんて、これもちょっと考えられないんだ。もしかして、何かあるんじゃないの?」
 柚実の的を射た指摘に私はドキッとしてしまった。柚実は冷静なこともあって、その真の問題を見抜いている。
 暫しの間が空き、二人は私をじっと見ていた。
 じろじろと見つめられ、私の目は焦点を合わさず揺れ動く。辛抱強く私からの答えを待ってる二人を前に、私はおどおどとするだけだった。
 居心地が悪く、針の筵(むしろ)に座っているような状態。
 私はこの場を丸く納めるために簡単に謝ってしまう。
「ごめん、本当にごめん。私が悪いんだ」
 ひたすら謝るが、それが希莉には気に食わず、一層火に油を注いでしまった。
「千咲都はいつも謝ってばっかり」
 希莉の感情はすぐには収まることなく、不機嫌さが露骨に顔に出ていた。
 その態度に、ふと不公平さを感じてしまった。
 こんな事を持ち出した私が一番悪いと思っている。でも今まで希莉の言うことを聞いてはそれに従っていたのに、希莉にも冗談と済ますにはギリギリのような言動にも怒らず受け流してきた。
 もちろん我慢することだって多々あった。
 それなのに自分の時は、なぜこんなにも責められるのだろう。少しぐらい私の事を大目にみてくれてもいいのに。
 そんな気持ちを抱いてもやっぱり口にはできず、希莉のイライラした態度にやっぱり屈服してしまう。
「だって、希莉が怒ってるんだもん。謝るしかないじゃない」
「千咲都は謝るばかりで、こういうとき鬱陶しいよ」
 鬱陶しい──。
 とてもショックだった。
 自分の非を認めて謝っているのに、謝るだけで鬱陶しいなんて言われるなんて思わなかった。
 私は下を向いて黙りこくってしまった。
 それを見かねて柚実が間に入る。
「千咲都が一方的に悪い訳でもないんだよ。こういうことになった経緯が私達わからないから、つい責めちゃったけど、千咲都も黙ってないで、自分の言いたい 事を言った方がいいよ。千咲都は人を尊重しすぎて我慢する所があるでしょ。そういう部分が希莉をイライラさせてるんだと思う」
 柚実は助け舟をだしたつもりだろうが、私が良かれと思ってやってきたことを全く否定する意見だった。
 好かれると思ってやってたことがイライラさせている?
 そんな事思いもよらなかった。
 その時、チャイムが鳴り、それを合図に希莉も柚実もぎこちなく自分の席についていく。
 私の机の上には汚れた手紙がポツンと置き去りにされ、私もまた一人孤島に居るような気分で座っていた。
 ふと顔を上げたとき、近江君が私を見ていたことに気がついた。
 目が合ったときお互いそらしたが、希莉と揉めてたところを見られていたのだろうか。そうだったらとても嫌だ。
 近江君は一体何を思っただろうか。やっぱり私が無理をしているって呆れてただろうか。
 無理──。
 でも私にとっては努力でもあった。
 それをいい様に捉えてくれてもいいじゃないの。それが鬱陶しいやら、気に入らないで理不尽に否定されるのも一方的で不公平だ。
 私の事、もっと理解してくれたっていいのに。
 少なくとも私はいつだって我慢してきたのに。
 私は汚れた手紙に向かって小さく『バカ』と罵った。
 だけど事態はこれだけで終わらせてくれなかった。
 転がした小さな雪の塊は急な斜面から転がり落ちていき、そしてそれが段々と大きくなっていく。
 まさに今私はその坂道を転げる雪の塊のうえで玉乗りをしている状態だった。
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