第二章


 全ての授業が終わった後の緩んだ空気が流れる放課後。思い思いに教室や廊下に生徒が散らばっている。
 同じ制服を着ているというのに、ここでは疎外感たっぷりに私は異分子だった。
 見知らぬ人ばかりとすれ違い、唯一の頼れる命綱は前を歩いている草壁先輩のみ。しかし、その命綱ですら、掴んでいいのかわからない。
 それでも草壁先輩の背中を見失わないように必死に私は着いて行く。すれ違った女子達が何事かと振り返り視線を向ければ、その度に私はどんどん肩身が狭くなった。
 二年一組の教室まで来た時、草壁先輩は堂々と中へ入って行った。でも私の足はそこで急ブレーキをかけ止まってしまう。
 そんな私を見かねて、草壁先輩は引き返し私の腕を引っ張って、無理やり中に引き込んだ。
 その勢いのまま、窓際でたむろしている男子生徒たちめがけて突進んだ。
「出渕!」
「おっ、草壁。一体なんだよ。あれっ、千咲都ちゃんも一緒?」
「お前、千咲都ちゃんをメッセンジャーとして扱っただろ」
 手に持っていた手紙をひらひらと宙で振っていた。
「あっ、それは」
「千咲都ちゃん困ってるぞ。どうしても相手が受け取らなくて、これを引き受けたことを責められたそうだ。お前のせいで千咲都ちゃん窮地においつめられたんだぞ。こいうものは自分で渡せよ」
「だってさ、俺が話しかけようとしても向こうが恥かしがってすぐ姿隠すし、連絡のとりようがないから、仕方なく俺のメールアドレスと電話番号を手紙で渡そうと……」
「おい、それって避けられてるのがわからないのか。お前、都合よく受け取りすぎ。なんでも相手は彼氏がいるんだってさ。諦めな」
「えっ、そうなの。だったら俺は思わせぶりをさせられてたの? なんだよそれ」
「だから違うって。お前はいつもずれてるんだよな。向こうは逃げてたんだよ。どうしてそれに気がつかないんだよ」
「だって、俺困ってるところ助けたんだぜ。お礼も何度も言われたし、すごく感謝されたのに。普通こういう場合、その後惚れられるのが筋ってもんじゃないか」
「バカも休み休み言え。お前はやっぱり根本的に間違ってる」
 草壁先輩は手紙を出渕先輩につきつけた。
「あっ、なんでこれこんなに汚れてるんだよ」
「ご、ごめんなさい。それは私が誤って汚してしまったんです。全ては私が悪いんです」
 思いっきり頭を下げていた。
 その時ずっと我慢してきたものが一度に噴出して、涙が溢れ出した。
 何もかも私が悪い。
 悲観的にしか考えられなくなってしまった。
「千咲都ちゃん、別に泣かなくてもいいんだって。悪いのは出渕だから」
 草壁先輩は私を擁護してくれるけど、全く関係ない草壁先輩に頼ってしまったことも悪くって、全てを抱え込んだ上で押しつぶされてしまった。
「泣かれると困っちゃうな。俺、本当に悪いみたいじゃないか」
「お前、ほんとに悪いんだって!」
 草壁先輩は出渕先輩の頭を叩いていた。
「仕方がないな。もういいよ。気にするな。相手が受け取らないんだったらどうしようもないから」
 出渕先輩は引き下がるを得ないと、私の涙に完敗した様子だった。
「それと、あの、近江君のことですけど」
 くしゃくしゃの顔で洟をすすりながら私は言った。
「えっ、ハル? ああ、虐めないでってことか。まあ、別に俺は虐めてる訳じゃないんだぜ。千咲都ちゃんの目から見たらそう見えただけなんだよ」
「お前は限度って言うものを知らないからな。結構ハルだって迷惑していると思うぜ。いい加減にしろよ。あいつの事はそっとしておいてやれ」
「ちぇっ、こっちとしたら仲良くしてるつもりだったんだけどな」
 さっきから感じ方がずれてるだけに、出渕先輩はそう思っていても、他の人の目には全く違うものとして映っていたことだろう。
 この人は感覚がおかしい。
 自覚のない人程、人を追い詰めてるとは露ほどとも思わないものだ。要注意人物なのは間違いない。
 でも草壁先輩が中に入ってくれてとても助かった。
 涙と鼻水と横隔膜に入り込んだ息遣いで、無茶苦茶だったが、私は草壁先輩に必死にお礼をいった。
 そして、出渕先輩にも理解してもらえた事を感謝した。
 早く終わらせたい、早くここから去って忘れてしまいたい、その一身で最後に謝った。
「下級生の分際でほんとに皆さんにご迷惑掛けてすみません」
「千咲都ちゃん、そんなに必死にならなくても。純粋だね」
 草壁先輩は私の気持ちを汲み取り、温かい眼差しを向けてくれた。
「それじゃ、失礼いたします」
 もうこれ以上ここに居るのは我慢の限界だった。及び腰に体はすでに後ろに下がっている。
 逃げるように踵を返したが、草壁先輩がすぐさま私を呼び止めた。
「慌てなくてもいいじゃん。よかったらもう少し色々と話さないか。今そんな顔で飛び出されたら、それこそ、俺達がなんかしたって思われるぜ」
「えっ」
 私は慌てて顔を拭い、何でもないようにしようとしたが、涙が出た後の赤い目は中々変えられるものではなかった。
 私が顔を拭ってる間、みんなが注目して見ていたことにはっとすると、私は恥かしくて急に足の力が抜けて、よたついた。
「おいおい、大丈夫かよ」
 草壁先輩が咄嗟に近寄ってくる。
「だ、大丈夫です」
 全てが恥かしくて、今度は熟れたトマトのように顔が真っ赤になっていく。
 心配で顔色が青くなったり、恥かしさで赤くなったりなんとも忙しい。
 目の前には上級生の男子生徒が何人も居て、その全ての視線の先は私だった。一度に浴びた注目の怖さで、極度のストレスから最後は失神してしまいそうだった。
 全然大丈夫じゃなかった。
「千咲都ちゃんって無理するタイプだね。なんか守ってあげたくなる」
 草壁先輩の手が私の体を支えていた。
「ひぇ〜」
 奇声を出して私は飛び跳ね、バタバタと手を振って草壁先輩から離れた。気が触れて飛び立とうとしてたのかもしれない。
「あっ、大丈夫ですから。その、なんていうか、楽しく笑って教室を出ますので、誤解もされないと思います。本当にすみませんでした」
 一礼をした後は、脱兎のごとく教室を出て行った。
 後ろで笑い声が聞こえたが、気にしてる暇などなかった。
 血相を変えて廊下を走り、やっと見慣れた自分の下駄箱についた時、取り乱してハアハアと暫く喘いでいた。
 下駄箱を背にし、体を持たせかけてやっと一息つけるようになった。
 思い出せば、かーっと顔が熱くなってくる。
 やだ、もう忘れよう。早く家に帰りたい。
 そそくさと靴を履き替え、外に出れば、朝から降り続いていた雨が止んでいた。
 しかし、一時的な休息にすぎず、まだまだ第二段の雨がやってきそうに雲は垂れ込めたままだった。
 私の問題も一つ片付いたが、それが片付いたからといって希莉と仲直りできるとは限らなかった。
 願わくば雨降って地固まってほしいものだけど、地面のぬかるみを踏んだら、足元が簡単にぐちゃっとしてしまった。
「あーあ、やってしまった」
 爪先についた泥の汚れに不快な重みを感じてしまった。
 些細なものなのに──。
 その泥を見つめていると、希莉から自分に発せられた『鬱陶しい』という言葉が不意に蘇る。
「鬱陶しい……」
 知らずと声に出して呟いていた。
「そうだよね。この天気は鬱陶しいよね」
 後ろから突然話しかけられ、びっくりして振り返れば、そこには草壁先輩がテレポーションしてきたように立っていた。
「ああっ!」
「おいおい、そんなにびっくりしないでくれ。教室を出て行った時もそうだったけど、リアクションが激しいね。あの後皆でちょっと笑ってしまったよ」
「すみません」
 何を言われてもこの言葉しか出てこない。
「だから謝らなくていいって。余程俺達の事を怖がってるんだろうなって皆で話してたんだ。それでフォローしようと思って追いかけてきた」
 もちろんその通りではあった。
「だって、先輩だし、緊張しちゃって」
「たかが一年違いなだけで、そこまで考えなくても。大した事ないって。俺だって以前は一年だったけど、そこまで上級生の事なんとも思ってなかったな」
 私は返答に困ってしまって黙っていると、草壁先輩はくすっと笑った。
「ほら、今もかなり怖がってる」
「関係ないのに草壁先輩を突然頼ったりしてやっぱり迷惑かけちゃいましたし、自分でも困惑しすぎて何してるのかわかってないんです」
「俺は頼られて嬉しかったよ。ちょっと上級生気取りにもなれたし。あっ、自分で上級生の立場を誇張してしまってるな。そりゃ緊張させるわ」
「いえ、そんな」
 なんで一緒に帰ってるんだろうと思いつつ、緊張の面持ちで私は肩を並べて歩いていた。
「ねぇ、千咲都ちゃんは、ハルと仲がいいのか?」
「仲がいいって言うわけでは、でも近江君からいつも話しかけてくれます」
「そっか。あいつさ……」
 草壁先輩がそこまで言いかけたが、その後は首を横に静かに振って「なんでもない」と話をそこで終わらせた。
 近江君の何を言いたかったのだろう。
 私が気にかかって、草壁先輩の顔を見つめると、先輩は優しい笑顔を返してくれた。
 一歳年上なだけですごく大人に見えるし、そして自分とは違う次元にいる人にも思えて、それは神々しい。
 こんな曇りの天気ですら、そこに太陽が出たように眩しく見えるようだった。
「千咲都ちゃんって不思議というのか、面白いね。ハルが声掛けたくなるのもわかる気がする」
「違うんです。私って、表面的な部分だけしか見てなくて、それに合わせようと無理するタイプなんです。それがきっと痛い奴に見えて、近江君は見かねただけです。近江君は人を見る目があるというのか、観察力がすごいです」
「ふーん。でもハルにそんな能力があったっけな」
「あるんです。結構鋭いんです」
「例えばどんな風に?」
「私、今一緒にいるグループの女の子達とは見分不相応なのに、その中に入って自分もあやかってかっこよく見られたいなんて思って一緒にいる事を、近江君は 無理してるって見破りました。本当にその通りで、身の程知らずです。あの手紙が引き金となって、思い知らされました。そのせいで友達関係が気まずくなって しまったんですけど」
 私は懺悔する思いで草壁先輩に希莉との事を話してしまった。
「そっか。それで思いつめて、今日の出来事に繋がるわけだ」
「手紙の事は先輩に助けてもらったので、一つ解決できましたけど、希莉が何を怒ってるのかわからなくて、あっ、希莉っていうのが友達の名前です」
「うーん、女の子は複雑だからね。俺にもよくわからないけど、千咲都ちゃんは全ての経緯をその女の子に全部話したかい?」
「えっ?」
「取引きがあって、そうなったことを言ってないんだろう」
「それは、近江君のプライベートなことに繋がると思って、そこは端折りました」
「ハルの事も守りたいし、全てを丸く修めたい、全てがそう上手くいくもんじゃないと思う。千咲都ちゃんは自分一人で抱え込みすぎたんだよ」
「抱え込みすぎた?」
「そして、それを一人で勝手に思い込んで処理しようとするから知らないものには誤解を招く。いつもごめんなさいばかりと謝っているだけでは何も解決しない よ。必ず係わった人の気持ちも入ってくるし、相手が納得しなければ、それは上辺だけの謝罪でいつまでも禍根が残るんじゃないかな」
「やっぱり先輩も私を見てたらイライラしますか?」
「うーん、どうだろう。今は千咲都ちゃん、俺に何もかも話してくれてるだろ。理由がわかってたらそうは思わないな。寧ろ、かわいい…… なんてね」
「えっ?」
「ほら、男って年下の女の子から頼られて、悩みを聞かされると結構自尊心をくすぐられるもんなんだよ。俺って特別なんだとか、助けてやりたいとか王子様気取りになったりしてね」
 その後、草壁先輩は照れるように笑っていた。
「はぁ……」
「あっ、今バカな男だと思っただろう?」
「いえ、そ、そんな」
 目が回るくらいぶんぶんと首を横に振った。
 草壁先輩はそれを見て一段と楽しそうにしていた。
 つられて私も微笑んでみたものの、なぜ草壁先輩と一緒に歩いているんだろうと思うと、突然目の前の景色がゲシュタルト崩壊してきた。
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