第二章


 二時間目の終わり、チャイムが鳴って授業が終わったその直後、筆箱にシャーペンをしまいながら、私はソワソワして落ち着かない。チラリと希莉と柚実の様子を見れば、二人は静かに席についていた。
 希莉の少し屈んだ背中と微かに動く右肩。きっとスマホを弄っているのだろう。
 柚実は近くに居た人と話しだした。ノートを手に持ってるところをみると、宿題の事を聞かれたのだろう。
 みんなそれぞれの事をしている。とても落ち着いていた。でも私はそれが悲しかった。
 その後の休み時間も同じようにバラバラの行動が続く。
 柚実は全く関係ないのに、中立の立場を保つと宣言した以上、希莉と二人っきりになることはしなかった。
 唯一、お弁当を食べるときだけ、他の人も混じるので一緒に集まって食べたが、気まずく私と顔を合わせる希莉に私はぎこちなく笑顔を向けた。
 その時の希莉がなんだか寂しそうで、また気分を害しているようにも見えて、私は耐えられなくて結局顔を背けてしまった。
 辺りはガヤガヤとうるさく、お昼のリラックスした雰囲気が漂う中、私は気まずい思いを抱いてお弁当の蓋を開けた。
 最初に目に飛び込んだのはレンコンの煮物だった。それを箸でつまんで穴を覗き込む。
 見通しがよくなりますようにと口に入れたとき、誰かが私に話を振ってきた。
「遠山さん、草壁先輩と親しくなったって本当なの?」
 好奇心でランランとした目を私に向けた。
「えっ、違うって。あれは本当にただの偶然で、決して親しい訳ではないの」
 私は必死に否定する。
「草壁先輩って誰?」
 知らない人もいたから、話を持ち出した人は得意げになって説明していた。
 その人の話によると、草壁先輩はサッカー部のエースで女生徒からのファンも多く、そのハンサムな風貌から学校のアイドルになっているらしい。
 私はそんな事も知らずに、ゴリラの出渕先輩の手紙がきっかけで、そこに居たから助けて貰ったけど、そんな話を聞いて大それた事をしてしまったと、また恥かしさがこみ上げてくる。
「遠山さん、すごい。そんな人と親しいなんて」
「だから違うの」
「でもさ、草壁先輩ってサッカー部のマネージャーと付き合ってるんじゃなかったっけ?」
「そんな噂も聞くね。だったら遠山さんと三角関係ってことなの?」
 そんな馬鹿な。思わず絶句してしまった。
「しかし、遠山さんすごいな。あんなかっこいい人に自ら近づけるなんて。私なんて絶対できない」
 かっこいい?
 そんな事意識せず、あの時は手紙の事しか頭になくて、まじまじと顔の評価をする余裕などなかった。
 あれは切羽詰って追い込まれてたから、藁をも掴む気持ちで助けてくれる人にすがりついただけだった。
 すでに手紙の問題は終わってるし、草壁先輩ともこれ以上係わり合う必要もないから、そっとして欲しいが、みんなからすごいすごいと言われチヤホヤされ続けたらそんなに悪くなくなってくるのが恐ろしい。
 少しだけの優越感。後からじわじわとくるものがあった。
 自分でもあちこちに気持ちが揺れて、安定してないのは承知だが、一体私はどこへ行こうとしているのだろうか。
 お弁当を食べ終わると、希莉は一人でどこかへ行ってしまい、柚実は適当に周りに居た人と過ごしていた。
 私はこれ以上、草壁先輩の事を訊かれるのが嫌で、隠れる思いで図書室に行った。
 なぜそこに行ったのか。
 そこにしか行くところが思いつかなかったが、近江君がいるような気もしたのも確かだった。
 会いたいというよりも、会えたらブンジの画像を見せたいという思いもあったので、ポケットにスマートフォンを忍ばせた。

 昼休みに図書館に集まる人達は、やはり本好きなのだろう。
 勉強用に用意されたテーブルで本を読みながら座っていたり、棚に向かって好みの本を探している人達が居た。
 校舎の一番端で外に面した部分が全てガラス張りで、日当たりもよく明るい設計。お茶が出てくれば、サンルームのようにお洒落な空間だった。
 ここには開放感があった。
 私も何かいい本があれば借りてみようかという気になり、棚に沿って本を見てみた。
 どうせ弟から借りた本は、趣味に合いそうもないし、できたら面白い本が読みたかった。
 適当に本棚を見ていると、後ろから声がした。
「もしかして、俺に会いに来たとか?」
 振り返れば近江君がニタッと笑っていた。
 やっぱりここに居た。
「えっ、ち、違うわよ…… でも、居るかもとは思ったけど」
「だったら、多少は会いたかった気持ちはあったってことか?」
「……」
 私は無言で目を凝らして近江君をじっと見てしまう。
「な、なんでそこで、睨みつけて沈黙するんだよ」
 近江君に会いたいと思って来たわけじゃなかったけど、会えるかもしれないと思う気持ちは確かにあった。それを否定するのも嫌だし、誤魔化すのも嫌だし、素直に嬉しそうに笑うのも嫌だった。
 この時私はポケットに手を入れ、スマートフォンを握り締めている。
 ブンジの写真を見せたくて、はやる気持ちを抑えてどうしようかと迷ってるとこんな顔になっていた。
 近江君とはすでに免疫がついてしまったのか、こうやって会っていても抵抗がなくなった。
 異性と一緒にいれば、常に意識してぎこちなくなるのに、近江君はそんな事も感じさせずに普通に話せる。
 それは昨日、私を気にかけてくれたことで、親しみを抱いたからかもしれない。近江君の前では気取らずにそのままでいられるのが不思議だった。
 いつも一人でいるから妙に構える必要がなくて、気さくさな性格が私を落ち着かせる。気軽に声を掛けてくれるのもとても有難い。
「私、あまり異性と話すの苦手なんだけど、近江君はどこか何かが違う。だから、無意識にやっぱり会いたかったのかなってちょっと思った」
「おっ、遠山は、俺には素直じゃないか」
「素直?」
「そう、無理せずにいられるって言う意味」
「あのね、どうして私が無理してるとか思うわけ?」
「ん…… 別に意味はないんだけど、たまたま目について見てたらそう思った」
「やっぱり、私っておかしい?」
「全然、おかしくないけど、無理をしてたら疲れないか? きっとどこかで悪影響に繋がるぜ」
「なんでそこまで、私の事見てたの?」
「えっ、そ、それは…… ブンジかな」
「ブンジ?」
「うん、猫。猫飼ってるだろ。俺、猫好きなんだ」
 どうして猫が関係して私を見ているのかがわからないが、猫好きというのがどこかで引っかかってたのかもしれない。
 とにかく、この時私はいいチャンスだと思った。
 さっきから握っていたスマートフォンをポケットから取り出し、素早く画面にタッチして操作すると、それを近江君に差し出した。
「ねぇ、これ、これ見て」
「あっ、ブンジ」
 近江君の顔が弛緩して笑顔になっていた。
 ブンジを見てそんな顔をしてくれるのが、私にはとっても嬉しい。
「かわいいでしょ」
「いい猫だな。凛々しい姿してる。上手く撮れてるよ。画質も綺麗だな。なあ、このブンジの画像、俺のスマホに送ってくれないか」
 近江君がポケットからスマホをとりだし準備する。
「うん、いいよ」
 近江君がブンジをとても気に入ってくれたのが私も嬉しい。喜び勇んでスマホを操作した。
 ブンジの話題になると私も一層心を開いてしまう。
「近江君は猫飼ってないの?」
「今のところはな。いつか飼えたらとは思ってるけど。あっ、これも、これも送って」
 沢山撮ったブンジの写真が近江君のスマホへと送信される。
 近江君は早速自分のスマホに届いたブンジの写真を見て、ニヤついていた。
「早く、猫飼えるといいね。その時は私にもどんな猫か見せてね」
「ああ」
 近江君はスマホから顔を上げ、私をじっと見詰めだした。
「どうしたの?」
「やっぱり、猫の話をしている遠山って、生き生きして表情が違うよな」
「だって、ブンジ大好きだもん」
「お前さ、笹山と松田にもそうやって話ししたらどうだ。なんか三人ギクシャクしてるみたいだけどさ」
「あっ、やっぱりそう見えてるんだ」
「まあ、女は男と違って複雑だろうけど、なんか勿体ないよな。笹山と松田っていい奴じゃないか」
「それはわかってるけど、だけど、私の何がダメなのかがわからないの。ちょっと色々あってさ」
 まさか本人を目の前にして、出渕先輩との駆け引きの事は言えない。
 苦笑いの私に近江君は呆れるように首を横に振った。
「あのさ、俺、別にあいつらから虐められてないから。それに、草壁からすでに一部始終聞いたから」
「えっ、嘘、どうして、草壁先輩が近江君に話すのよ」
「どうしてって言われても、草壁が遠山の事心配してさ、俺に話が来ただけ。でもさ、遠山って結構お節介だよな」
 お節介といわれて私はなんだかカチンと来た。
「だって、出渕先輩が直接私のところに来たし、断るの怖かったし、どうせやるんだったら、役に立ちたかったしっ!」
 なんだかヤケクソに言葉を投げつけてしまった。
「それで俺を助けようとしたってことか? 俺なんて遠山には関係ないのに」
「だって、いつも一人でいるしさ、そこに上級生が絡んできたら、私だって気の毒だって思うじゃない! それは、その、私が勝手にやったことだから、それは近江君には迷惑かもしれなかったけどさ、だけど、放っておけなかったの!」
 頬を膨らませながら、痛いところ突かれて逆切れする思いで言い返していた。
 近江君はそれを見て笑っていたが、眼差しが優しく見えた。
「そんなに不貞腐れるなよ。まあ、そうやって気にかけてくれたのは、俺は素直に嬉しいけどな。でもそのせいでこじれて、とばっちりのように遠山が自分の友達と孤立するのはよくないぜ」
「だけど、それは謝ったんだけど、謝っても許してくれないからさ、私、希莉が何を怒ってるのかがわからないんだもん。柚実は中立保ってるし、どうしていいかわからない」
「だったら事の顛末を正直に話して、気持ちをぶつければいいじゃないか」
「理由を話したところで、すでに解決できない感じ。私に原因があるみたいに怒ってる」
「女ってやっぱり複雑だな。きっと今更引っ込めない面子もあるんだろうけど、遠山にも明確な原因はあるだろうな」
「だからその原因って何よ!」
 つい突っかかってしまった後、近江君はじっと私の顔を見ていた。
 目を細め、するどい視線を突きつけてくるので、私は少し身を引いてしまった。
「な、何よ。なんでそんなにまじで見てるのよ」
「ほら、それだよ。それ」
「はっ?」
「遠山は俺には気持ちをぶつけてきてるじゃないか。そんな風に笹山と話し合ってみろよ。わからなければとことん訊けばいいじゃないか」
「だから、それが気軽にできないから……」
「なんで、できないんだ?」
「えっ、なんでって言われても……」
「ほら、それが原因だって」
「私が、訊かないことが原因? でも訊いても教えてくれないんだよ」
 さっきから堂々巡りをしているようで、なんだかいらついてきた。
 つい不満げに頬を膨らませて、感情を顔に表した。
 すると近江君はくすっと笑い、いきなり、本棚に片手をついて、壁ドンならぬ、本棚ドンをしてきた。
「ちょっと何よ」
「昔の俺だったらさ、こういうとき、こんな風にかっこつけてさ、遠山を口説いていたかも」
 目元をきりっとさせて迫ってくる遠山君が少し大人びて、その時の表情は世間を知った荒ぶった態度だった。
「一体なんなのよ」
「いや、気持ちを素直にぶつけてくる遠山が可愛く思えて、ちょっとからかいたくなった。お前やっぱり面白い」
「面白がられても困るんですけど。いつまでそのポーズのままでいる気?」
 その時、本棚の通路の端に女性が現れた。
 本棚に背を向けている私と、向かい側で本棚ドンしてる近江君のポーズを見て、はっとして驚いていたが、その後は見てみぬフリをして姿を消した。
 私は近江君の制服の裾を引っ張り、いつまでもそのポーズでいるなと牽制し、声無き声で「バカ」と罵った。
 近江君は懲りずに笑っていた。
 その時、オープンラックの棚の向こう、本の隙間から視線を感じ、睨むような目つきが見え、私はドキッとした。さっきの女生徒だった。
 変なところを見られたが、知らない人なのでその時は別にどうでもいいと思って、私はそそくさと何事もなかったようにその場を去った。
 近江君もちらりと、その女生徒のいる方向を見たが、気にせずに私の後を着いてきた。
 結局本を借りず、私達は教室に戻ってきたが、昼休み近江君と一緒に過ごせた事は少し気が紛れた。
 教室に入ったとたん、お互いまた見知らぬもの同士になるのが少し寂しく感じてしまったほどだった。
 近江君も、教室の中では私と露骨には接触しない。
 無視するわけではないが、教室の中ではどこか分け隔てたものがあった。
 異性と特別に仲良くするというのは、それなりに誤解も生じ易いのもあるが、近江君はやはりクラスの中では一人を貫きたいのかもしれない。
 でも席についていた近江君を見てたら、近江君も私に視線を向けて、粋な笑みを飛ばしてくれた。
 それが二人だけの秘密を共有してるみたいで、なんだかドキッとしてしまった。
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