第四章


 私はなんて答えていいのかわからなかった。
 草壁先輩と近江君を比較することなどまずできない。
 草壁先輩に好意をもたれることも、困惑の何ものでもない。
 思考も言葉も伴わないで、居心地の悪さだけ感じて、喉につまった喘ぎ声を低く出すことしかできなかった。
 私が何も言わないでいると、草壁先輩は気分を害した顔になった。それを見るとなんだか焦って取り繕わなければならない気にさせられた。
 しかし焦れば焦るほど、喉の奥から反射した音だけが漏れた。
「ハルの過去を知らないから、千咲都ちゃんはハルにはいいイメージしかないんだと思う。勉強もできるし、真面目腐った風貌だし、はっきり言ってあれはダサい! あのハルが昔、金髪で荒ぶった不良だったなんていっても、君にはピンと来ないんだろうね」
「その不良ってどういうことですか?」
「俺が言えるのはここまでだ。これ以上言ったら、俺、ハルを貶めようとしてるみたいじゃないか。千咲都ちゃんが、ハルの事を気にするから、ヤキモチやいてしまった。だけどさ、よーく考えて。俺、千咲都ちゃんに似合う男になるからさ」
「えっ、それ、レベル落とすってことですよ」
「はっ、どうしてレベル落とさないといけないんだ。俺はもっと誠実で、千咲都ちゃんに好かれる男になるって言ってるんだけど」
「勿体無いです。私なんて、そんな」
 本当に心からそう思った私の対応だった。でもそれに反して草壁先輩は違った。
「千咲都ちゃん、それ、イライラする」
「えっ」
 いつか聞いたお決まりの言葉が出てきた。
「俺が、好きだって言ってるんだから、そのまま受け入れたらいいじゃないか。千咲都ちゃんはそれだけ俺には魅力的だってことだ。どうして君は自分に自信が もてないんだい。何をそんなに卑下するんだ。それだからいつも謝ってばっかりで、人につけこまれてしまうんだよ。それは俺が変えてやる」
 昼休みにいきなり手を繋がれた事も考慮して、草壁先輩は強引な所があるとこの時感じた。圧倒されて、無理やり引っ張られて振り回される。
 気が休まらない、自分の思うように話せない、まだ遠慮して自分をさらけ出せないものがあった。
 私を好きでいてくれる事は嬉しさを飛び越えて光栄に値するというのに、私は素直に受け入れられずに戸惑ってしまう。
 本気で草壁先輩をもし好きになったとしたら、今度は嫌われたくない防御が働いてもっと無理してしまいそう。
 草壁先輩の意外と独占欲が強いところも、私には重荷になりそうにも思えた。
 調教されてしまうような、対等に向き合えない力関係がどうしても拭えない。
「千咲都ちゃん、さっきから黙ってないでなんとか言ったらどうだい」
「あの、私やっぱり草壁先輩とは付き合えません……」
「ダメだ!」
「えっ」
「まだ、答えを出すのは早い。それにその理由を俺にちゃんと言えるのかい?」
「それは、その」
「そこで、また勿体無いとか釣り合わないとか言うんじゃないだろうね。俺はそんな理由では納得できない。断るのなら納得できる理由でなくっちゃ。千咲都ちゃんは臆病になってるだけだ。俺は千咲都ちゃんに絶対好かれる自信があるんだ。ほら、もう一度考えて。はい、やり直し」
 最後はにっこりと微笑んだ。
「はぁ……」
 やり直しといわれても、一体何を言えば分かってもらえるのだろうか。
 風で横槍に雨が降ってきた。
 まっすぐに上から落ちるだけでいいのに、これは傘を傾けても足元が濡れてしまう。
 一層のこと傘を放り投げて濡れてしまおうかと思うくらい、全てを水に流して振り出しに戻りたくなった。
 考える事がどんどん増えて、自分でも手に負えなくなってきている。
 私の隣で堂々としている草壁先輩がこの時ご主人様のようで、私は鎖に繋がれた犬のように感じた。
 因みに私は猫が好き。
 自由気ままに、自分のペースで行動し、そして時には甘えたいとスリスリと身をよせる。
 だから犬よりは猫の方になりたい。
 草壁先輩は犬と猫どっちが好きなのだろうか。訊いてみたかったけど、今はそれを訊けるような状態ではなかった。

 やっとの思いで家に戻ってきた時は、どっと疲れていた。ここ最近ずっと疲れが取れてないようで、何もする気が起こらなくなってしまう。
 来月に行われる期末試験の準備もしないといけないし、その後は高校始まって初めての通知表が待ってるし、やはり頑張ってるところを両親に見せたいとも思う。
 だけど、本来勉強をしなければならない高校生活ではあるけど、それプラス充実した楽しい青春も送りたい。それなのに、すでに行き詰ってしまって、試練ばかりにうんざりしてきた。
 どれも上手くかみ合わず、ひたすら辛い。こんなはずではなかったのに。
 キッチンで冷蔵庫から冷たい飲み物を出して、それを心行くまで飲んでから、ブンジを探した。
 ブンジは居間のソファで大人しく横たわっていた。
「ブンちゃん、おいで」
 面倒くさそうに頭を上げて私を見ていたが、ソファーから動こうとしなかった。
「ブンちゃんにも無視されちゃうの?」
 ブンジに近づいてそっと頭を撫でてやると、いつものゴロゴロが聞こえない。寝てるところを邪魔して機嫌が悪くなっているのかもしれない。
 じっと私を見つめている目が責めているようにも見えた。
「はいはい、邪魔してごめんね」
 ブンジをそのままにして、私は自分の部屋に行った。

 毎朝、教室に入ってどんな一日になるのか考えるのが怖い。無事に授業が全て終了しても、その次は部活が気がかりになる。
 そのうち学校へ行くのが嫌になりそうだった。
 まさか、こんなことで不登校……
 毎日溜息を吐きながら時間が経っていく。
 寝つきも悪くなるし、ぐっすりと眠れず夜中に何度か目が覚めたりする。
 そして今日もまた目覚まし時計より早く目が覚めた。
 雨はまだ引き続き降ってる様子で、静寂な部屋で微かな雨音が聞こえていた。時計を見ればまだ5時前。
 そして尿意を催し、仕方なく起き上がった。
 階段を下りたその先の玄関前で、バイクのエンジンが聞こえていた。いつかの新聞配達員に違いない。
 朝が早い仕事なだけで大変なのに、こんな梅雨時の雨の中でも配達しないといけないのがお気の毒。それでもよく続くと思う。
 バイクの音は次第に遠くなり、次の配達場所へと向かった様子だった。
 起きたついでに、配達ほやほやの新聞を取りに玄関のドアを開けた。案の定雨が降っている。
 玄関先の軒下に放り投げられた新聞を拾い上げ、顔を上げれば出窓にブンジが座って私を見ていた。
 暗い中でも白っぽい部分が、ぼわっとその姿が浮き上がるように見える。
 ブンジはいつもこんな風に新聞配達員がバイクで来る度に、出窓から見てるのだろうか。
 窓についた雨の滴と猫の形が合わさって幻想的に見えた。ブンジも私を見つめているようだった。
 じっとそれに魅入っていたとき、尿意が迫ってぶるっと身を震った。
「こんなことしてたら、もらしちゃう」
 慌てて家の中に戻っていった。
 用を足した後は完全に目が覚め、ソファーでブンジを膝に乗せてそのまま空が明るくなっていくのを見届けた。
 今日という日は何が待つのか、気分が晴れないままでいると、目の瞼がピクピクしだした。
 何で知ったか忘れたが、瞼が勝手にピクピク動くと不吉なことが起こる前触れと聞いた事があったから不安になった。
 その時は気のせいだと思うようにして、身を奮い起こしたけど、それが本当に不吉な前兆だったとは思わなかった。
 ただの偶然の重なり、迷信に過ぎないとは分かっていても、私は突然の事にどう処理していいかわからなくなった。
 そして私は壊れてしまった──
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