第五章 その猫は見ている


 近江君から手渡された物は頭と顔をすっぽり包み込むバイクのヘルメットだった。
 それを持ってマンションの裏手に回れば、駐車場のスペースがあった。
 一角だけ簡単な屋根がついた、自転車が置けるスペースがあり、そこに一際目立って、黒っぽいバイクが隅っこに置かれていた。
 近江君は16歳になってすぐに普通二輪免許を取ったそうだ。
 留年しなければ高校二年の17歳だけど免許を取ってまだ間もないその年月に不安がよぎり、ヘルメットを抱える手が震えて落としそうになってしまった。
 慌ててしっかりと抱えなおし引き攣った笑みを見せたが、近江君も私が怯んだ一瞬のしぐさを敏感に感じ、「参ったな」と苦笑いしていた。
「俺は無理強いはしない。嫌なら乗らなくていい」
 バイクは普通一人で楽しむもので、人を後ろに乗せる時はその人の命を預かって運転するものだとその心得を説明し、リスクは充分理解した上で、私に決めて欲しいと言う。
 生半可にやってることじゃないと真剣に私を見ていた。
「俺は必ず安全に運転する」
 力強く誓う近江君の瞳が、深く私を捉えて男らしかった。
 私は体の芯から湧き起るやる気に身震いし、力強く頷いた。近江君と一蓮托生にバイクに乗りたいと思ったのだ。
「いいかい、俺が動く通りに体を委ねて欲しい。しっかりと俺に捉まっていたら大丈夫だから、絶対その手は離すな」
「わかった」
 近江君がヘルメットを装着する。私もそれに見習って被った。
 バイクは比較的新しく光沢を帯びてかっこよかった。そのスマートな機械的なフォームが、よく知らない私の目にも魅力的に映った。
 近江君は引っ張り出して、それに跨る。わたしも持っていた鞄を背中におぶるように提げて、近江君の後ろに座った。
 そして遠慮なく思いっきり近江君の背中に持たれて、がっしりと抱きついた。
「それでいい」
 近江君はしっかり掴んだ私の手を上からポンポンと叩いていた。
「それじゃ行くぞ。怖がるなよ」
「わかった」
 口ではそういったものの、私は思わず目をぎゅっと瞑ってしまう。
 そしてバイクが動き出すと同時に、体に重く圧し掛かる重力を感じた。怖くないって言えば嘘になるけど、その反面、近江君にしっかり抱きついて、ドキドキするのが快感でもあった。
 風を強く感じ、エンジンの奮えが体の中にまで響く。自分自身が発射されたロケットのようだと思った。
 近江君はブンジの弔いと称したけど、なんとなくいいたい事がわかったような気がした。
 悲しみに自棄になって力強く気持ちをぶつけるには、バイクで飛ばすのはもってこいのような気がする。
 ブンジが居なくなった世界。でも自分は生きて、まだこの世に存在しているのがリスクと隣り合わせに感じてくる。
 生と死の境目に自分はいるような気分だった。
 近江君は生きてることを私に感じさせ、そこでしっかり前を見ろと示唆してるのかもしれない。かつて辛酸を舐めた近江君だからこそ、近江君の気持ちが背中から伝わってくるようだった。
 そしてその背中はまるで緩衝材のように私の悲しみを軽減する。
 近江君の背中。この瞬間だけは私のものだった。

 どれくらいバイクは走っていたのだろうか。長かったようでもあっと言う間でもあった。
 次第にスピードが落ち、そしてとうとう停まったとき、私はやっと周りを見る余裕ができた。
 見覚えがある住宅街の中、目の前には出窓がある家。
 見たことあると思った時、その家の玄関から、父と母が慌てて飛び出してきて、益々混乱した。
 まさにここは自分の家だった。
 バイクから降り、ヘルメットを脱いだ瞬間「千咲都!」と名前を強く呼ばれた。
「き、君は一体誰だね。どうして娘とバイクに乗ってるんだ」
 取り乱した自分の父の姿を見たのは初めてかもしれない。またその態度がドラマでよくある父親像だったから、私はある意味びっくりして本当の自分の父かと疑ったくらいだった。
 近江君はバイクから降り、ヘルメットを脱いで深々と頭を下げた。
「すみません。二度ともうしません」
「近江君、謝らなくてもいい、私が勝手に乗せてもらったんだから」
「千咲都、早く家に入りなさい」
 母も取り乱していた。
「ちょっと何も心配することないわ。近江君は私を助けてくれたんだから」
 父と母の失礼な態度に私の方が恥かしくなった。
「いいんだよ、親としたら当たり前だ」
「だけど無事に運転してくれたわ。とても気持ちよくて快適だった。お蔭で心が癒えたもん。近江君には感謝してる。だけどなぜ私の家がわかったの?」
 近江君がその質問に答えようとしているその時、父が勢いよく門を開けて飛び出し、無理やり私の腕を取って引き寄せる。
「お父さん、ちょっと引っ張らないでよ」
「千咲都が、なんでこんな不良とバイクなんかに」
「お父さん、それは失礼よ。近江君はクラスでもトップクラスの成績で優等生なんだから」
「いいから、早く家に入りなさい。悪いけど君、今後うちの娘とは付き合わないで欲しい」
 これまたお決まりの捨て台詞を吐いて、私を無理に家の中に引っ張っていく。
「お父さん、やめてよ。近江君、ごめん」
「いいんだよ。こんなことした俺が悪いんだから」
 近江君は潔く非難を受け入れるも、後悔はしてないすっきりした気持ちで笑っていた。そしてヘルメットを再び装着し、バイクに跨った。
「それじゃ失礼します」
「近江君!」
 バイクのエンジン音が響き、近江君はすぐさま走り去っていく。あっと言う間にその姿は小さくなっていった。
 もう少し近江君と一緒にいたかった。そんな未練が残るまま、近江君が去っていった方向を暫く見つめていた。
 父はそれも許さないと私を無理やり家に引っ張っていく。
「早く家に入りなさい」
「放っておいてよ」
 抵抗していたその時、持っていたヘルメットが手から零れ落ちた。
 ハッとして慌ててそれを拾い上げ、私はしっかりと抱き締め、自ら家に入っていった。
 父はその様子に不安と心配さを兼ねた悲しげな表情をしていた。
 
 家の中に入れば、父と母にすぐさま説教された。
 私の帰りが遅いので、何かあったんじゃないかと心配したと何度も強く言う。
 ブンジが死んでショックを受けてるから、特にその心配が強まっていたところに、バイクの派手なエンジン音が家の前で聞こえ、何事かと出てみたらヘルメットを被った私が居たから驚いたらしい。
 真っ向からバイクを否定し、高校生があんな危険な乗り物に乗るのは不良だと決め付けるから、私も頭にきた。
「近江君は自分の意見を持ったしっかりした人よ。勉強だって人一倍努力して、そしてテストで一番を取ったりする人なんだから。バイクに乗ってるだけで不良だなんて決め付けないで」
「何言ってるんだ。無事に帰ってきたからいいけど、もし事故に遭ってたらああいう乗り物は簡単に命を落とすんだぞ」
「でも、事故に遭わなかったからいいじゃない。近江君の前であんな態度取るほうが失礼だわ。近江君は私が困っている時、いつも助けてくれた人なの。私が毎 日学校に行けたのも近江君が影で私を元気付けてくれたからなんだから。そんな恩人に、見た目で不良だなんて決め付けないでよ。近江君の事よく知りもしない くせに」
 私が怒鳴ると、架が私達の間に入ってきた。手には白い骨袋を持っていた。
「ブンジが死んで間もないのに、親子喧嘩するなよ」
「これ、ブンジの骨壷が入ってるの?」
「そうだよ」
 架からそれを受け取り、私は抱きしめた。悲しいことには変わりないが、昨日ほど涙が出なかったのは、少しだけブンジの死を受け入れたからだった。
 全ては近江君のお蔭だった。それなのにお父さんときたら酷すぎる。
 私はブンジの遺骨を抱き、近江君のヘルメットを持って自分の部屋に篭った。
「千咲都、まだ話は終わってない」
 父が追いかけてきて、ドアのに向かって何か言ってるが、私はドアを押さえて入れないようにして無視をした。
 父はやがて諦めたが、お互いしこりは残ったままどちらも譲らず、喧嘩は長期化しそうだった。
 普段は私の肩を持つ母ですら、今回は父の味方となっている。
 架は巻き込まれたくないとどちらの肩も持たなかった。弟なんだから姉側につけと思うと、不満で弟にも腹が立つ始末だった。
 怒ってると、ブンジへの悲しみが分散されてしまった。
「ごめんね、ブンちゃん」
 ブンジの骨壷が入った骨袋を抱きながら、ブンジの事を思う。
 近江君にもブンジを会わせたかった。一度でいいから本物を見て欲しかった。
 近江君のバイクのヘルメットとブンジの遺骨を交互に見つめたその時、私は違和感を覚え、なんだか暫く動けなかった。
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