第五章


 私が近江君と一緒にバイクに乗って帰ってきたことで、父と母は大騒ぎし、私は一方的に責められた。
 納得がいかない私は反抗して部屋に閉じこもり一晩を明かしたが、ふと気になることがあり、ずっとそれについて思いを巡らしていた。
 夜明け前に起きだし、その時間が来るまで目覚まし時計と睨めっこしたあと、タイミングを見計らって父が寝ている寝室へ入り込んだ。
 カーテンを閉め切った真っ暗い部屋、デジタル時計から発せられる微かな光にぼんやりと照らされた父と母が、スヤスヤと同じベッドで寝ている。
 私は昨夜の怒りを思い出して、父の体を揺すった。
 父ははっとして目を開け、何事かと恐怖に満ちた目を向け、目の前にいた私に驚いていた。それが私だとわかると、起きたばかりの強張った顔をしながら身を起こした。
 側にあった時計で時間を確認した後「こんな朝早くから一体なんだ」と不機嫌に訊いた。
 隣で母も、異変に気がついて起き出した。
「チーちゃん、一体何?」
 母は無視して、父だけを見て私は言った。
「お父さん、話がある」
「話って、こんな朝早くにか。後にしてくれ」
「今じゃないと、もう二度と話さないから」
「千咲都」
「とにかく下に下りてきて」
 私は部屋を出て行くと、父もしぶしぶと起きて後をつけてきた。母も心配して一緒についてくる。
 階段を降りた先の玄関口で履物を履こうとしている私に父は困惑していた。
「こんな朝早くからどこへ行くんだ」
「とにかくついて来て」
 父も言われるままに草履を足にひっかけた。
 玄関のドアを開くと、ひんやりとした空気が肌に触れた。目の前は夜が明けかけた空が現われ、辺りはまどろんだミルク色になっていた。
 玄関の先に私が立つと、父もその隣に身を置き、おちつかなくソワソワしている。母は玄関から顔を覗かして様子を伺っていた。
 私がいつまでもそこに立ったままだったので、父は痺れを切らした。
「一体ここに立って何が始まるというんだ」
「いいから、黙って待ってて」
 強く言い切るも、私も本当はどうしていいのかわからなかった。
 だけど、どうしても玄関先で父と一緒に待っていたかった。
 そしてようやく自分が待っていたものが現われた。ブンジも毎日待っていた瞬間。
 バイクの音が次第に近づいてくると共に私は胸の高鳴りを感じた。やがてそのバイクはいつものように家の前で留まり、そこで低くエンジン音が鳴っていた。
 その新聞配達用の原付バイクに、頭だけを守るヘルメットを装着した男性がまっすぐ私達親子を見つめて挨拶する。
「おはようございます」
 はっきりとした弾む声だった。
 そして新聞を持った手を伸ばし、私に突き出した。私は近寄り、それを間近で受け取った。
「おはよう、近江君。いつもありがとう」
「バレちまったか。学校には内緒だぞ」
 そのやり取りを父と母は黙って見ていた。
 近江君は出窓に振り返り「寂しくなったな」と呟く。そして玄関先にいた、私の父と母に頭を下げた。
 まだ状況を把握していない父と母は、気持ち的に浅く首を振って返していた。
「それじゃ、また学校でな」
「気をつけてね」
 近江君は頷いて、すぐさまバイクを走らせ去っていった。昨日と同じように姿はあっと言う間に消えた。
 私は受け取った新聞を父に黙って手渡す。
 父は言葉に詰まりながらそれを手にして、じっと見つめていた。
 すでに夜が明け、辺りは明るくなっていた。その日は珍しく雲がなく、これから澄んだ青空が広がろうとしていた。
 梅雨もそろそろ明けるのかもしれない。

 親子で早起きした朝、私はコーヒーメーカーに水を入れスイッチを押した。
 父はテーブルに着き、食卓の上に置いた新聞を読まずにいつまでも眺めていた。
 母はその隣で何を話していいのかわからないまま、じっと座っている
 コーヒーメーカーからやがて、沸き立つお湯のスチーム音が聞こえ、徐々にコーヒーの液体がポットに溜まっていく。最後はピーという出来上がりの知らせ音が鳴った。
 私はポットを手にとって、それぞれのマグに注いで、それを父と母の前に置いた。
 どちらも「ありがとう」と言ってそれを手にした。
 母は予めテーブルの上に用意していたクリームを手に取り、それをコーヒーに注いでいたが、父はブラックのまますぐさま口にした。
 私も自分のコーヒーカップを手にして、椅子に座り、砂糖とクリームを入れてかき混ぜた。
 私達は暫くコーヒーを無言で味わい、一息ついた。
「美味しいよ」
 父がぼそりと言った。
 母は同意するように隣で頷いていた。
「ブンジね、いつも新聞配達のバイクの音が聞こえると出窓に上がって、見てたんだ」
「そっか」
 背中を丸めた父がコーヒーをズズーっと啜った。
 それ以上何もいわない父がもどかしく、私は単刀直入に訊いた。
「毎朝早く起きて、バイクに乗って新聞配達する人が不良なの?」
「千咲都……」
「雨の日も濡れながら新聞を配達するんだよ。朝早く起きるのもつらいだろうし、寝る時間だって削られる。でも近江君しっかり勉強して、中間は学年で10番以内の成績だったんだ」
 父はじっと俯いて聞いていた。
「バイクは危ない乗り物かもしれない。だけど免許は16歳から取れるんでしょ。法律が許可してたら、乗ったってなんの咎めもない。近江君は私を元気つけるためにやってくれたことで、いい加減な気持ちで運転してた訳じゃない」
「でも親としたらやっぱり心配する」
「私が心配掛けたことは謝るわ。心配を掛けたのは自らバイクに乗った私の責任であって、近江君じゃないの。なのに論点をずらして、近江君を不良だと決め付けて侮辱するのはおかしいわ。私が言いたいのはそこなの」
 父は持ってたカップを静かにテーブルに置いた。
「そうだな、千咲都の言う通りだな。あの少年を不良呼ばわりしたのは悪かった。すまなかった」
「謝るのは私にじゃないわ」
「わかってるよ」
 父は面映く新聞を引き寄せ、いつものように読み始めた。
 母は何かを思案しながらマグカップを何度も揺らして、コーヒーを見つめていた。何も言わないところみると、母も忸怩たる思いなのかもしれない。 
 近江君が配達したその新聞は、この日一層テーブルの上で浮き立って見えた。
 これで一応の親子の確執は終止符を打った。
 父とここまでいい合いをして反抗したのは私にとって初めてのことだった。私も反省すべき事はあるだろうけど、でもこれだけは譲れない思いがあった。
 父と本音でぶつかり合ったことはよかったとさえ思える。
 納得いかない事は話し合ってお互い少しずつ譲歩して妥協点をみつけてこそ、そこに理解力が深まっていく。
 どちらか一方がわだかまっていたら、いい関係は築けない。
 満足いく結果が得られた時、私はまた父の顔を見て笑うことができた。それは本心から出てきた笑みだった。
 その時、私は何か大事な事を思い出したみたいにハッとし、そしてゆっくりとコーヒーを口に含み、ゴクリと喉に流し込んだ。
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