第五章


 近江君の口許が微かに動いたが、その後、気まずそうに「何でもない」とお茶を濁した。
 何を言おうとしていたのだろう。
 また中途半端にチャイムに邪魔をされて、私も聞き返すチャンスを奪われてしまった。
 近江君は教科書に目を落としたので、私はそっとして自分の席に戻った。
 希莉と柚実がそれぞれ私を見てたので、顔を合わせれば、冷やかすような笑みが添えられた。
 私は「放っておいて」と意地の悪い顔を作って見せたけど、素直に感情を表せることに心地よさを感じてもいた。
 外は今までの曇り空が、シールをはがしたようにきれいになくなって、見事な青空が広がっている。梅雨明け宣言をしてもいいくらいの天気だった。
 私の心も同じようにすっきりとして、これで来週から始まる期末テストに集中できそうだった。
 やっと色んな意味の長い梅雨が明けて嬉しかったけど、次、夏が来ることを私は手放しで喜べなかった。
 
 期末テストがとうとう始まり、寝不足が続く毎日だったが、近江君は新聞配達を続けながら、期末テストに挑んでいたから、私は頭が下がる思いだった。
 それに自分でも言っていたが、近江君は不自由ない裕福な環境なのに、なぜ新聞配達をしているのかも謎だった。
 毎朝の早起きなんて辛いし、いつも勉強に忙しい近江君が睡眠時間を削ってまで新聞配達をする理由。
 その新聞を読んでいる父の前でふと口にした時、父はさりげなく「早起きは三文の得」と言った。
 そんなことわざで締め括っていいものだろうかと思案していたが、きっと近江君には目標があり、それを続けることで自分の得につながる根拠となったのかもしれない。
 あれは朝早く起きる修行のうちで、精神を鍛えていたとなんだか思えてくるから、それもありえる。
 修行僧かと思いつつ、近江君ならやりかねないと納得していると、父がページを捲ったそのリズムでまたさりげなく言った。
「彼、もうすぐ辞めるそうだが」
「えっ、なんで知ってるの?」
「朝、少しだけ話をしたんだ」
「いつの間に。私ですら寝てたというのに」
「やっぱり本人に失礼を詫びたかったからね」
 近江君は謝罪を受けて爽やかに笑っていたという。
「しかしだな、その、交際を認めたという意味ではないぞ」
 言う事は言っておきたいと咳払いをしながら、ここで父親らしい頑固な部分がでてきた。
「あのね、近江君とはなんでもありません。ただの友達なの」
「えっ、お付き合いしてないのか?」
「してません」
「そうか。なら別にかまわん」
 父にはあっさりとこの問題は解決してしまった。気が楽そうに近江君が配達した英字新聞を読んでいた。
 しかし、私の中では父のようにはいかなかった。
 
 期末テストが終わり、答案も返ってきて、あとは夏休みを待つだけという一番気楽な日々が続く。
 今回のテストも、近江君は上位に名を連ね、その頑張りぶりは健在だった。
 私といえば、極端な結果で教科によってばらつきが激しかった。それでも自分では頑張った方である。
 テストが終わるとすぐクラブ活動が再開し、ここでも櫻井さんがやめることに、誰しも惜しんでいた。
 私と加地さんが残って二人でマネージャー業をこなさないといけないのだが、その加地さんは露骨に意地悪はしないけど、仲がよくなったとも言えなかった。
 これからどうしようと思っていると、常盤さんがマネージャーをやりたいと突如申し出してきたから私は悲鳴をあげた。
 その隣で草壁先輩も一緒になって叫んでくれた。
 二人でムンクの叫びのような顔になっていた訳だが、人手不足だから、顧問の先生は歓迎し、他の選手は実態を知らないから反対する人はいなかった。
 小声で「それなら私は辞めてもいいかな」と言おうとすれば、草壁先輩は素早く反応して、私の口を押さえ込んだ。
「縁起でもない事言うんじゃない」
 草壁先輩とは気楽に話せるようになり、以前のように緊張することはなかった。まだ私の事を思ってくれてるらしく、時々アプローチしてくるが、何度断っても理由になってないと断り方のダメだしをされる。
 私が猫派だと知ってから、草壁先輩も気に入られようと、猫はかわいいアピールをするようになっていた。
 スマホで猫を集めるというゲームをしていると、新しい猫が現われる度私に見せてくれる。実はそれ、私もすでにやっている。
 草壁先輩の顔はかっこいいまま、最近動きだけコミカルで三枚目っぽくなっている。
 女生徒からいつもアイドル的存在として扱われていた自分を脱却したいと、かっこつけるのを自らやめたらしい。しかし、それがまた新たな魅力となって、草壁先輩はキャーキャー言われていた。
 噂では私が草壁先輩の彼女とされていて、全然知らない人から挨拶される事もあった。
 草壁先輩とは先輩後輩の枠を超えていい友達になれたとは思う。しかし、私は恋焦がれることはなかった。
 私が好きなのは近江君。
 近江君ともいい友達になれたままで、その先へは進めなかった。というより、近江君にとって私は彼女対象になってない。
 あれだけ親密に近づいたけど、近江君は私の事が放っておけないだけだった。
 私もはっきりと気持ちを伝えることができずに、モヤモヤと抱え込んでいた。
 そして近江君はもうすぐアメリカに行ってしまう。しかもあの櫻井さんと一緒に。
 一年で戻ってくるとはいえ、この一年間は進む行く先を決めてしまうには充分に影響を与える。しかも海を越えた異国。私の知らない世界を近江君は歩んでいく。
 私が好きだと告白したところで、近江君にはどうすることもなく迷惑なことだろう。
 だから、私は自分の気持ちが処理できずに、胸がつまったように苦しくて、それでいて熱くて焼け焦げそうだった。叩けば口から黒煙が出てきそうなくらいに。
 どうにかしたいと思っていた時、私はホームルームで、思いっきり手をあげていた。私にはどうしてもクラスでやりたいことがあった。
inserted by FC2 system