第五章


 時計を見れば、三時半を過ぎた頃だった。これなら余裕だと思ったが、空港が広すぎて、どこに行けばいいのかわからなくて焦ってしまう。
 空港会社によって行く場所が違うし、本当に近江君はこの空港に今いるのだろうか。
 どこを見ていいのかもわからない。調べ方が分からない。
 藁をも掴む思いで、案内所に駆け込んだ。とてもキレイで清楚なお姉さんが「どうぞ」と手を差し伸べてくれた。
 目立つ衣装に、首に巻いたスカーフが気品高く、しぐさまでも洗練されていた。優しく柔らかな声で、私が知りたかった事を丁寧に教えてくれ、とても助かった。
 そのシアトル行きの飛行機が6時の出発というのも分かった。かなりの余裕があると安心したとき、お姉さんは急いだ方がいいと知らせてくれた。
 国際線は2時間前に搭乗手続きをするので、すでに済ませている可能性がある。
 その時、時計を見ればすでに四時近くなっていた。
 早めに来てチェックインを済ませていたら、この広い空港のどこに居るのかわからなくなる。もしかしたら、早く出国審査に向かってしまうかもしれない。そこは一般の人は入れないから、そこに行ってしまったらもう会えなくなる。
 と、説明してくれた。
 これでは全く余裕がないではないか。
 私は慌てて礼をすると、すぐさま教えられた場所へと向かった。
 人がひっきりなしにどこにでもいるし、また沢山の荷物を持っているから、すぐに通路に邪魔が入ってまっすぐ進めなかった。
 思う存分突っ走りたくても、込み合った空港内では憚れ、ピンボールのボールになったような気持ちで、前に人が現われる度にあちこち跳ね返る。
 そして、やっと空港カウンターに来た時、私の息は上がっていた。気を取り直し、チェックインの列を眺める。
 そこに近江君が居ないか探した。絶対に居ると信じて確かめたが、居なかったとわかったとき、私は絶望してしまう。
 すでにチェックインを済ませているのか、それともまだ来てないのかもわからない。
 ここで待っていても、辺りを歩き回っても、お互いの行動にずれがあれば決してそれは交わることがない。
 どうしようと判断に困っていたら、人ごみに紛れて車の運転手の三井さんが歩いているのを見つけた。私はジャックポットを当てた気分で思わず走り寄った。
「三井さんですよね」
 三井さんはキョトンとしてたが、私を見ているうちに誰だが思い出してくれた。
「ああ、あの時、坊ちゃんが連れてきたお嬢さん」
「あの、近江君は?」
「晴人坊ちゃんですか。今、出国審査に向かわれたところです」
「えっ、やっぱりすでにチェックイン済ませてたんですか」
「でも、まだ走れば間に合うかもしれません。オーナーが見送ってるはずです」
「オーナー?」
「ぼっちゃんのお母さんのことですよ。とにかく早くおいきなさい。私もオーナーに電話して、ぼっちゃんを引き止めるように連絡します」
 三井さんはすぐにスマホを取り出し電話を掛けた。
 私は繋がったかどうか確認する前に、走り出していた。
 お願い、間に合って。
 出国審査の入り口では人だかりができていた。
 そこに近江君のお母さんらしき、派手な人が目に入り、ちょうど電話を耳に当てて何かを話している。きっと相手は三井さんだと思った。
 その出国審査の入り口付近で近江君を見かけたと思ったとたん、その姿は入り口の方へ入っていって消えてしまった。
「近江君! 待って」
 私が叫んだ時、近江君のお母さんが本の少し早く近江君を呼び止めていてくれた。そして近江君は引き返してきた。
 そこに私が弾丸のように突っ走ってきたもんだから、非常に驚いて目を丸くしていた。
「遠山!」
「近江君!」
 大勢の人の視線が私に集中していたが、そんなのもお構いなしに、近江君にがっしりと抱きついた。
 近江君はドシンと刺激を感じて「うぉっ」と軽く声を上げていた。
「一体どうしたんだ」
「どうしたもこうしたもないわよ。どうして今日出発だって教えてくれなかったの」
 私はすでに泣いていた。
「それは、俺は一人で出発したかったからだよ」
「だったらなんでお母さんが居るのよ」
「それは俺の母で保護者だからだ」
「そんなの理由にならない」
「遠山には参ったな。俺だって辛いんだぞ。望んだこととは言え、言葉も違うし、環境も違う、知ってる人がいないところへ飛び込むんだぞ。そんなとき、友達 大勢に見送られてみろ。なんか悲しくなるじゃないか。見送る方は無責任に、頑張れとかいうだけですむんだぜ。一人で悲しくなってたら不公平だろ」
「それが理由なの?」
「それともなんて言えばいいんだ。遠山と離れるのが悲しくなるから辛いからとでも言えばいいのか?」
「私は近江君と離れるのが寂しい」
「おいおい、やめろよ。もっと前を見ろ。他にも色々といるだろ」
「私は、近江君が好……」
 言い切る前に、突然近江君に口を押さえられた。思わずモゴモゴとしてしまう。
「はい、ストップ! それ以上は言うな」
「ムグググググ」
「遠山、一年って期間は高校生活の中でもとても貴重な時間だ。切羽詰って、感情に流されて軽々しくそんな言葉を、去っていく相手に言うんじゃない」
「フンググググググ」
「俺はなんの約束もしたくない。この一年は俺だけのものなんだ。そして遠山にとっても。自由でなければならないんだ」
「ぶはっ!」
 私は近江君の抑えていた手をやっとの思いで取り払った。
「何すんのよ。苦しいじゃない」
 私は近江君を泣きそうな目で見つめる。
 近江君は相変わらず、意地悪っぽく笑っていた。
「遠山、それじゃ俺行くから」
「近江君、待って」
「待たないよ。この先もな。だから遠山も待つなよ。じゃあな」
「近江君!」
 あっさりと淡々としたやり取りで終わってしまった。
 近江君は出国審査の入り口を未練なく入っていく。最後は振り返りもせず、身勝手にさっさと行ってしまった。
 私は振られたんだろうか。よくわからない別れだった。
「わが息子ながら、不器用だね」
 後ろから声がして振り返れば、近江君のお母さんがニヤニヤと私を見て笑っていた。
 お母さんが近くに居たのをすっかり忘れていた。
「あっ、ど、どうも」
「別に恥かしがることないわよ。私は例え息子の事であっても、若者同士の恋には寛容よ」
「あの、その、私、そんなんじゃ」
「今更何を誤魔化そうとしているのかしら。告白までしようとしてたの、私は見ちゃったわよ」
「でも、振られてしまいました」
 てへ、ペロっとお茶目に表現しようとしたら、涙が込み上げてこれ以上押さえ切れない感情が溢れてきてしまった。
「あらあら、何も泣かなくていいじゃない。それに息子はあなたを振ってないわよ。あれは相当あなたの事気に入ってるわね」
「えっ?」
「やっぱり親子かしら、好きになる人の趣味が一緒。真面目で、一生懸命で、素直で…… そういう人に惹かれちゃうのよね。そうだわ、一つ助言してあげる。 昔からあの子に教えてるんだけど、人生で大切な人に出会う時、必ず何かのサインがあるってね。そういうサインを感じて人を見つけた時は、早めに唾をつけな さいって言ってるの。そして絶対に離しちゃだめってね」
「でも、近江君は待つなって……」
「ハルも、あなたもまだ子供なだけ。あなただってこの先何があるかわからないわよ。だけど、本当に二人が望んで同じ道を進もうとするのなら、そこに必ず道 しるべが現われる。その道しるべの先の将来を二人がどんな風に見るかってことが大事なの。迷わずにそこを目指して進みなさい。あなたがそこを目指せば、ハ ルもきっと目指すはずだわ。ハルがいいたかったのは、それまで束縛されずに自分のしたい事をしろってことよ。だって同じ道を進んでいたら、その先は迷うは ずがないでしょ」
 なんだかよくわからなかったけど、でもなんかわかったような気がする。
 道しるべに沿って同じ道を進む。
 その道しるべって、もしかしたらブンジの事だったのかもしれない。
 ブンジが出窓に立って、近江君を導いた。そして私も導かれた。
 ブンジが道しるべ。
 これが近江君のお母さんがいうサインのことだとしたら……
「あ、あの、ありがとうございます。私もこの一年、近江君に負けないように頑張ります」
 近江君のお母さんは全てを見通した観音様のように穏やかに笑っていた。
 そこに近江君の面影を私は見ていた。
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