Pure Dark

第八章

27 導かれた使命

「ベアトリス!」
 パトリックの悲痛の叫びが轟いたとき、ベアトリスは何が起こったかわからなかった。
 突然ふわりと宙に浮いた感覚を覚え、目に飛び込んだ景色は絵の具が入り乱れあったパレットのように混ざり合ってぐるぐる していた。
 どーんと体が衝撃を感じると、闇にじわりと飲み込まれていくようだった。
 誰かが抱えて名前を呼んでいる。そこには泣きそうな顔をしている人の姿がぼやけて見えた。
 それは実際パトリックだったが、ベアトリスには誰だかわからないほど意識が遠のいていた。しかし、そこで記憶がフラッシュした。
 ──あれ、前にもこんなことがあった。
 同じように目に涙を溜めて自分の名前を呼ぶ誰かがそれと重なる。ぼんやりとした記憶が見せたその誰かはまだ幼い少年に見えた。その顔に見覚えがあると認識したとき、ベアトリスは谷底へすとんと落ちるように意識がなくなった。
 遠くから救急車のサイレンが聞こえ、四つ角交差点辺りに居た人たちは一点を見つめたまま動かなかった。

 その次の日の朝は雲一つない空が広がった。
 ヴィンセントは裏庭で朝日を浴びながら腕を伸ばして、深呼吸をしていた。中身が入っていない小瓶を片手に握りながら ──。
 ヴィンセントが朝食を求めて台所に入ると、リチャードが出来立てのコーヒーをカップに注いでいるところだった。
 それをヴィンセントは横から奪った。
「おいおい、ヴィンセント、今朝は早く起きたと思ったら、珍しくコーヒーを飲むのか。しかもそのシャツ、アイロン使っていやにピシッとして、気取ってるじゃないか。なんかいつもと違うぞ」
「いいじゃないか、別に」
 いつもと違うのは見かけだけじゃないとリチャードは首を傾げた。ダークライトの気が感じられない。
「体の調子でも悪いんじゃないのか」
「すこぶるいいよ。こんな気分のいい日は久しぶりさ」
 ヴィンセントはコーヒーを口に含んだ。ほろ苦さが口いっぱいに広がる。
『チャンスは一度だけ』
 その言葉と一緒に飲み込んだ。
──俺は真実を隠しながら、ベアトリスにどこまで想いを伝えることができるだろう。
 ヴィンセントは残りのコーヒーも飲み込むが、変化を求めるように一生懸命無理して飲み干してるようだった。
 リチャードは何も言わず、その様子を見守っていた。

 ヴィンセントは張り切って学校へ向かった。学校の近くまで来ると、深く息を吸い込み、これからのことを案じた。
 ふと道行く人の会話が耳に入る。
「あそこの交差点で昨日、事故があったんだって。バイクで女の子がはねられたんだって」
「へぇ、その子、どうしちゃったの」
「意識不明の重体だって噂だよ」
「お気の毒に」
 それを聞いてヴィンセントも同じ言葉が頭によぎった。
 それよりも自分のことで頭が一杯だった。事故の真相も知らずにベアトリスのことを思いながら挑むように学校へ出陣していった。
 教室に入り、ベアトリスの笑顔を求めて彼女の机をすぐに見る。
 ちょうどジェニファーがタンポポを小さな花瓶に入れてベアトリスの机に飾っているのが目に入り、ヴィンセントは眉をしかめた。
「何の真似だ、ジェニファー」
 ヴィンセントが思わず走りよった。
「あら、知らないの、昨日ベアトリスったらバイクにはねられて意識不明の重体なんだって。それでお悔やみの花を添えてるの」
「嘘だ! 何かの間違いだ。それにこんな縁起の悪い酷いことするな」
 ヴィンセントは小さな花瓶を払いのけた。タンポポは散らばり、花瓶は床に落ちて簡単に割れた。
「あら、酷いのはどちら。勝手に人のものを壊すなんて。信じられなかったら、自分の目で確かめたらいいじゃないの。昔、暗殺された大統領が運ばれた有名な病院に居るって誰かが言ってたわ」
「ジェニファー、君はどうかしてるよ。いつもの君はこんな酷いことをしない」
 捨て台詞のように吐いて、ヴィンセントは教室を飛び出した。
 残されたジェニファーは目に一杯涙を溜めていた。
「誰のせいでこんな風になったと思ってるのよ」
 ジェニファーはまた胸を押さえ込んだ。影はジェニファーの中でせせら笑っていた。

「やっぱり朝になってもまだ意識が戻らない」
 アメリアは、病室でベッドに横たわるベアトリスを見つめながら呟いた。
 側でパトリックが魂をどこかに置き忘れたように憔悴していた。
「申し訳ありません。僕が側にいながらこんなことになってしまって」
「パトリック、それは何度も言ったはずよ。これはあなたのせいではないの。昨日知らされたときは心臓が止まるかと思ったけど、でもただの事故だったの。それに命の別状はないと医者も言ってたでしょ。幸いにも軽傷だった」
「でも、意識が戻らないのはなぜですか」
「何かがベアトリスの意識を妨げてるのかもしれない。彼女は無理やり塗りつぶされた過去の記憶がある。頭を打った拍子にリチャードが閉じ込めた記憶の闇が飛び出したかもしれない」
「記憶の闇?」
「リチャードは闇を操って記憶をコントロールできるダークライト。思い出させたくない記憶は闇で塗りつぶすの。ベアトリスは過去にリチャードとヴィンセン トに関わった記憶を全部黒く塗りつぶされた。ほんの少しの闇なら体に悪影響は与えない。でもベアトリスの場合は通常の闇では塗りつぶせなかったらしく、リ チャードは力の強い闇を使った。何も刺激を与えなければ、それはそこに留まったままになる。しかし強い刺激が加わって一部の記憶が戻るとバランスを崩し闇 は広がり意識を支配する」
「リチャードにまた元の状態に戻して貰えば元に戻るってことですか」
「それが、こうなってしまったらリチャードは記憶をもう一度塗りつぶすことができなくなるの。一度思い出した記憶は、何度塗りつぶしても時間が経てば独りでに蘇っては同じことの繰り返しになってしまうから」
「それじゃ、ベアトリスはどうなるんですか」
「この闇を取り除けば彼女は意識を取り戻す。だけど記憶も一緒に蘇る。過去にヴィンセントと接触していることを思い出せば、今の状況に益々疑問を抱く。もう嘘は突き通せない」
「でもそれしか方法はないじゃないですか。何もかも話して……」
「それができたら、とうにやってるわ」
 アメリアはそれが一筋縄ではできないと言ってるようなものだった。
「とにかく意識を取り戻すことの方が先決です。リチャードを呼べばいいんですね」
「待って、危険だけどもう一つ方法があるわ。ヴィンセントならベアトリスの意識を引っ張って、記憶の闇を元の位置に戻せるかもしれない」
「どういうことですか。リチャードにはできなくてヴィンセントにはできる。それに危険って一体どんなことをするんですか」
「ヴィンセントならベアトリスの意識に入ることができる。ベアトリスはかつてヴィンセントと意識を共有している。ベアトリスの眠っていたホワイトライトの力を引き出したあの日の出来事。あなたもあのとき側に居たから見てたはずよ」
 パトリックは声にならない驚き方をした。
「ヴィンセントがベアトリスともう一度意識を共有するの。そしてヴィンセントにベアトリスの意識を闇から引っ張り出してもらう。ベアトリスの意識が元に戻 れば、記憶の闇は意識の力に制御されてまた元の場所に留まることしかできなくなる。だけど、失敗すればヴィンセントの意識は闇に飲まれて消滅してしまうか もしれない」
「そんなこと、ヴィンセントに頼むんですか」
「判ってるわ。ヴィンセントにこんな危険なこと頼めるわけがない。それに、シールドではじかれて近づけないわ。もう覚悟を決めるしかないわね。ベアトリスに全てを話すときが来たわ。諦めてリチャードを呼びましょう」
「待って下さい。その役目俺が引き受けます」
「ヴィンセント!」
 アメリアとパトリックは同時に名前を呼んだ。
「すみません、ドアが開いていて、カーテンで仕切られていただけだったので、立ち聞きしてしまいました。事故のこと学校で聞いて、すぐにここに駆けつけた 次第です。まさか本当の話だったとは」
 ヴィンセントはベアトリスの寝ているベッドまで近づく。
「お前、シールドにはじかれてないじゃないか。ベアトリスのシールドは切れてるのか」
 堂々とベアトリスに近づいたヴィンセントにパトリックは目を見開いた。
「ヴィンセント、ライトソルーションを飲んだわね」
 アメリアが指摘した。
「はい。今朝飲みました」
「どこで手に入れたんだ」
「そんなことはどうでもいいんだ、パトリック。とにかくこれで好都合だ。こんな形で役に立つとは思ってもみなかったけど」
 喜んでいいのか、悲しんでいいのか、ふと微笑んだその顔は哀愁を帯びていた。これも運命。こうなることのためだったと思うと、ヴィンセントはきりっと眉を引き締めた。
「タイムリミットは日没。それまでに戻れなければ俺はベアトリスのシールドにはじかれ、意識がない体は焼かれてしまう。意識を共有してるときに体だけ離さ れても、俺の意識はベアトリスの中で消滅する。どっち道同じこと。だが時間はたっぷりある。その間に必ずベアトリ スの意識を戻して見せます」
「もしも、万が一の時は……」
 パトリックは不安が拭えない。
「そんな心配、俺がする訳ないだろう。必ずベアトリスの意識を引っ張って戻ってくるさ。俺だってベアトリスを守らないといけないんだ。これぐらいで俺がへたばるはずがない。パトリックばかりに美味しいところもっていかれちゃ困るのさ。お前には負けたくない」
「わかった。癪だけど、お前を信じるよ。必ず成功させろよ」
「ヴィンセント、無理はしないで。ダメだと判ったら、すぐに切り離して戻ってきて」
 パトリックとアメリアは祈る思いでヴィンセントを見つめた。
 ヴィンセントはベアトリスを愛しげに眺める。
 ベッドの側にあった椅子に腰掛け、ベアトリスの手を両手で握った。
 ──やっとまた触れられたよ、ベアトリス。さあ、目覚めるんだ。早く目を覚まして、日没のタイムリミットまでに俺を抱きしめておくれ。
 ヴィンセントとベアトリスの体に異変が起きた。二人の体から柔らかい煙のような光が放たれると、それが絡み合って調和し二人は膜に覆われるように包まれた。
 ヴィンセントはそのとき、ばさっと前かがみに倒れこんだ。
 パトリックとアメリアは息を飲み、二人を見守るしか術がなかった。
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