第五章


 駅の改札口を出て、空を見上げれば厚ぼったい灰色の雲が今にも雨を降らせようとしているようだった。
 拓登はその時、腕時計で時間を確認していた。
 急ぎの用があるのか、それとも雨が降らないうちに早く家に帰りたいのか、少しそわそわしていた。
「それじゃ真由、また電話かメールするよ」
「うん。いつでもいいから」
 拓登にバイバイと手を振り、駐輪所に走って行く拓登の後姿を見てから、私も歩き出した。
 六時の約束までにはまだ一時間はあった。
 家に帰って着替えている間に、すぐに出て行かないといけないので、そんなにゆっくりしている暇もなかった。
 待ち合わせの神社までは、自転車でいかないと歩いてでは遅くなってしまう。
 雨も降りそうなときに自転車に乗って出かけるのも嫌だったが、降らないことを願うしかなかった。
 阿部君とは久し振りに会うが、すっかり記憶から抜けていただけに、いざ会うとなるとどんな顔をして会えばいいのか少し戸惑う。
 顔は小学六年生のときに会ったのを最後に、その時の面影をなんとなく覚えているだけだからいまいちはっきりと分からないものがあった。
 会えばまた思い出すだろうけど、小学六年生の時はメガネをかけていて、見るからに賢そうなお坊ちゃま風だった。
 どんな風に変わっているのだろうか。
 子供時代にあまり接触を持たなかったけど、それでも知り合いには間違いないが、そんな人と会うことも、その理由が過去の記憶のためというのも、ひたすら変に思えてくる。
 気が乗らないけど、しなくてはいけない無理やりな任務のようで、体に異様に力が入っていた。
 家について、服を着替えるときも、何を着ていいのか分からず色々と迷ってしまった。
 久し振りの顔見せになるだけに、どこかでいいように思われたい見栄というのもあるし、お洒落して行く程のことでもないし、その加減がよくわからない。
 窓から外を見れば、益々薄暗く雲が垂れ込めているので、結局は濡れてもいいように、ジーンズにした。
 そうこうしているうちに、そろそろでかけないといけなくなり、慌しく階段を下りて玄関に向かった時、母が不思議そうに覗いてきた。
「どこか行くの? 雨がふりそうだけど」
「わかってる。でもちょっと人と会う約束があるの」
「そうなの。夜道は暗いから気をつけてね」
 靴を履き、下駄箱の棚に置いてあった折り畳みの傘を手にした。
 そして玄関を開けようとしたとき、母が突然思い出して声を掛けてきた。
「あっ、そうだ。あのほら、あの子」
「ん、あの子?」
「傘を貸した男の子よ」
「ああ、山之内君」
「そうそう、山之内君」
「彼がどうかしたの?」
「それが、かなりお金持ちみたいね」
「どうしたのよ、急に」
「別にどうしたってことじゃないんだけど、同じ名前の表札がかかった大きな家があったのを思い出したのよ」
「同じ名前の人で別宅かもしれないだけでしょ」
「でも、山之内さんって、お母さんちょっと知ってるかもしれないわ」
「そりゃ、同じ町に住んでるから、そういうこともあるかもしれないけど」
 私は自分の腕時計をみた。
 これ以上母と話していると時間をどんどん取られそうだった。
「多分、昔会った事があると思う。あれは確か……」
「お母さん、私急いでいるの、帰ってきてから聞くから」
「あっ、真由」
 私はさっさと玄関を出て、ドアを閉めてしまった。
 母は何かを言いたそうにしていたが、構っていると約束の時間に遅れそうだった。
 拓登の話は後でいい。
 腕時計の時間を確認して、自転車を引っ張り出し、門を開けて通りに出る。
 今のところ、まだ雨は降ってきていない。
 折りたたみの傘は前のカゴに放りこみ、そして私は自転車に跨ってペダルを踏む足に力を入れた。
 ぐっとお腹に力が入るように、ペダルをこいで神社へと向かった。
 遅れることだけは避けたくて、私は真剣に前を見据えながら走っていた。
 風と一緒に湿気を含んだ濡れた空気が肌に触れて行く。
 周りはそろそろ光が薄くなっては、闇が迫りだしていた。
 早く会ってすぐに済ませたい。
 それだけ、どこかで不安を感じあまり気乗りのしないことだと自分でも自覚していた。
 神社は賑やかな通りから少し奥に引っ込んだ住宅街の中に溶け込むようにあった。
 自転車を邪魔にならない場所に置き、カゴの中の傘も取られないように手に持って、神社の鳥居をくぐって中に入っていった。
 久し振りにやってきたが、全然変わっていないその風貌に懐かしさを覚え、私は薄暗くなった境内をぐるりと見渡した。
 阿部君はまだやってきてないどころか、誰一人いなかった。
 石でつくられた柱のようなフェンスで周りを囲まれ、さらに木が覆い茂っている。
 そこだけぽっかりと浮かぶ島のように、誰も居ないその神社は別の空間に迷い込んだ錯覚をしてしまう。
 神聖な場所として自然が守られているので、普段は気軽にお参りに来る近所の人たちの散歩道であったり、子供達の遊び場としても重宝する憩いの場所的存在である。
 この時間帯は薄暗さもあり一層寂しく、音を吸い込んでしまうくらいの静寂さに包まれていた。
 闇が迫るこの時間は少し不気味な感覚に囚われ、私は恐れる気持ちを誤魔化すために、小さい頃は友達とここでよく遊んでいたと思い出す。
 阿部君、早く来てと願いつつ、全く誰も居ない、ひっそりとした空間の中、私は一人ぽつんと佇んでいると、どんどんと心細くなっていった。
 風が吹けば、木々の葉っぱがサワサワと音を立てている。
 その時冷たいものが手の甲に触れた。
 雨がポツリポツリと降り出してきた。
 とうとう雨が降ってきたと、少し憂鬱に感じ、傘を開き始めた。
 その時、境内の後で何かの物音がして振り返るが、草木が茂った薄暗い場所がみえるだけで、特に変わったことはなかった。
 それと同時に、小石を踏む足音が入り口付近から聞こえた。
 はっとして再び振り返ると、ひょろっとした感じの男性がこっちに向かって歩いていた。
「倉持さん?」
「阿部君」
 お互いの名前を呼んだところで、安堵感が広がった。
 私も阿部君の方へ歩み寄り、お互い向かい合った。
 まだ薄っすらとした光があったので、近づけばお互いの顔がまだよく見える。
 久し振りに会ったものの、やはり面影は残っていて、それが阿部君だという事がはっきりと認識できた。
 銀縁のフレームがインテリっぽく、背筋を伸ばしてぴしっと立ってるところは身なりのいいお坊ちゃま風で、昔から勉強ができるイメージがあった分、このときもかしこそうな雰囲気が漂っていた。
 暫くはお互いの姿を確認しあっていた。
「待たせてしまったみたいだね。ごめんね」
「私も今きたとこだから。わざわざ来てくれてありがとう」
 雨はそれほど降ってなかったが、私はすでに傘を開いて肩に持たせかけていた。
 雨がふりそうだというのに阿部君は傘も持たないでここに来てくれたようだ。
 家が近いのだろうか。
「阿部君の家はこの辺りなの?」
「いや、違うんだけど」
 雨が少しずつ降ってくるが、阿部君は気にすることもなく私をじっと見ていた。
「あの、雨が降ってきたけど、大丈夫?」
 私が傘を差し出そうとするが、阿部君は首を横に振って遠慮する。
 まだ本格的に降ってるわけではなかったので、私も差し出した傘を引っ込めた。
「ここにいたら濡れちゃうから、どこか行こうか」
「ここでいいよ」
 突然の雨で、私は阿部君と会う目的がなんだったか忘れそうで、少し戸惑っていた。
 阿部君も何を話していいのか、少しそわそわするように、ぎこちなかった。
 いつまでも見つめているだけでは埒が明かなかったので、私は思い切って切り出した。
「あの、とにかく、その、小学一年生の時のことだけど」
 いきなりで唐突すぎたかもしれない。
 阿部君も、急に緊張したように私を見つめていた。
 辺りはどんどん、暗くなってかろうじてお互いが見えるくらいになり、神社の中は肝試しをするような不気味さが漂っていた。
 それでもこの場所から動けなくなり、私達はそのまま話を続ける。
「そうだね。あの時の話だったね。久し振りに会ったから、嬉しくてつい見とれてしまったよ。倉持さん、すごくきれいになったね」
 この暗闇で果たしてどこまではっきりと私の顔が見えるのか怪しいが、とりあえず話を潤滑にするためのお世辞だろう。
「阿部君も、すっかり大人になった感じがする」
 はっきりいって、顔は小学生にみたままの面影がそのまま残っていたし、先日会った阿部先生に似ていたから、そんなに変わった感じは見受けられなかった。
 あまり話した事がなかっただけに、私も当たり障りのないことを適当に返した。
「瑛太からは倉持さんのこと、時々聞いていたんだ。僕がずっと好きだったから、それで報告をしてくれてたんだと思う」
「えっ」
 いきなりさらりと言ってくれた。
 私が時々近所のスーパーや図書館に顔を出すことを瑛太は知っていたが、全てを阿部君に報告していたということだった。
 やはり阿部君は私の事が好きということは本当のようだ。
 しかし、それを聞いたところで、私には何も応えられなかった。
「ごめん。こんなこと言ったら迷惑だよね。でも、小学一年のとき、確かに僕はあの雨の中、君の頬にキスしてしまったんだ。そのことについて僕に聞きたかったんだろう」
「ほんとに、それは阿部君だったの?」
「そうだよ。あの時、下校時間になって雨が降って、皆、黄色い置き傘を使ったときだったよね」
 それは合っている。
 でもこちらから傘の事を訊きもしないのに、詳しく言いすぎじゃないだろうか。
 でも、頭のいい人は要点をつきながら簡素に話す傾向にあるのかもしれない。
 私はその先をもっと聞きたくなった。
「なぜ、あの時そんなことになったの?」
 阿部君は少し考えて言葉を選んでいるようだった。
「倉持さんは、授業で手紙を書かされたの覚えてる? 好きな友達に手紙を書いて交換したこと」
 手紙を書くことがあったのは覚えている。
 あの時、私は欲しかったのにもらえなかったから、それは覚えていた。
 私は首を縦に振った。
「倉持さんは僕に手紙を書いてくれたよね」
「えっ、私は阿部君に手紙を書いた?」
「やっぱり、それは忘れてた? あの手紙を貰って僕は嬉しかったんだ。それで気持ちが高まっていて、それを瑛太に言ったら、男なら行動で示せって言われてさ。それで囃し立てられて、ついあんな事をしちゃったんだ」
 その辺の記憶はあやふやだった。
 私は訝しげに阿部君を見ていたが、暗闇は果たしてどこまでお互いの表情を読み取れただろうか。
 阿部君はそのときどんな表情をしていたのかはっきりとわからなかった。
「私は、阿部君にどんな事を書いたの?」
「すごくかわいらしい絵と一緒に、ハートマークがついていてさ、女の子らしい手紙だったと思う」
「手紙なのに、絵を描いてたの? 他には?」
「”すき”って文字もあった」
 ラブレターみたいになってるじゃないの。
 何を書いたかはっきり覚えてないから、それがほんとのことかもわからない。
「阿部君も私に手紙を書いてくれた?」
「うん、書いたよ」
 だけど、それはやっぱり私の手元には届かなかった。
 この時の事を言うべきか、私は迷った。
 子供の頃とはいえ、読む前になくしてしまったとはいいにくい。
「ごめん、やっぱり覚えてない」
 そこは、適当に誤魔化しておいた。
 これで長年の疑問が解決したことになる。
 ずっと曖昧な記憶の中でくすぶっていた記憶だった。
 瑛太がこの話を持ち出さなかったら、いつまでもくすぶり続けていたことだろう。
 でもこれだけ、真実が分かったと言うのに、何かがすっきりとしない。
 あの手紙は、確か隣の席に座っていた男の子に向けて書いたはず。
 それが阿部君だった。
 そうだとしたら、私は阿部君が好きだったということになる。
 私はとても違和感を覚えて、考え込んでしまった。
 好きだった人のことまで忘れてしまったなんて、自分でもかなり情けないものを感じていた。
 所々の記憶は合うし、頭のいい阿部君の記憶は信頼おけそうなだけに、はっきりと思い出せない自分が悪いだけとしかいえない。
 辺りはすっかり暗闇に支配され、どこからか漏れてくる微かな光でぼんやりと建物や木々のシルエットが見えるだけだった。
 雨は目に見えないながらも、ポツポツとした雫が落ちているのは感じられた。
 このままここでずっと考え込んでいても仕方がない。
 でも阿部君は私の事を気にかけて、何も喋らないで辛抱強く付き合っていてくれた。
 それをいい事に阿部君が雨に濡れるのも気にかけずに私は納得できない疑問をぶつけてみた。
 まだどこかで信じきれていない自分がいる。
 何かの齟齬がないか私は確かめてみたかった。
「私、どうして阿部君に手紙を書いたんだろう」
「倉持さんが僕の隣の席に座ってたからだよ」
 そこは辻褄が合う。
 手紙を書いたのは、隣の席の男の子だったことはしっかりと覚えていた。
 しかし、その男の子が誰だったのか、そこがすごくあやふやだった。
 やはり阿部君だったのだろうか。
 私が考え込んでいる側で、阿部君は居心地が悪くなったようにその場の空気が乱れた気がした。
 雨が降ってきたせいかもしれない。
 阿部君のメガネに、雨の滴がついているのがぼんやりと見えた。
「すっかり暗くなっちゃったね。倉持さんもそろそろ家に帰らないと家の人が心配するかも」
「阿部君こそ…… 今日は本当にありがとう。無理を言ってごめんなさい」
 私達はそろそろお開きの雰囲気を感じていた。
「別にそれはいいんだけど、これで過去の記憶はすっきりした? ほんとにそれでよかった? 僕もまさか今になってこんな事を話すなんて思わなかった。倉持さんも、あれが僕の仕業だったと知って、怒ってない?」
「ううん、もう過去の事だし、それは怒ってないけど、私がそれを今頃持ち出してつき合わせてしまってごめんなさい。私の方がとても迷惑かけたと思う。阿部先生まで巻き込んじゃったし、本当にごめんなさい」
「君が謝ることはないよ。そんな風に言われたら、僕の方が辛いよ。ほんとにこれでいいの?」
「えっ?」
「ねぇ、本当にあの時のことはっきりと思い出せない? 君はもっと真剣に思い出すべきだと僕は思う。そうだろ、瑛太!」
「えっ? 瑛太?」
 阿部君は境内の奥の暗闇を見つめていた。
 真っ暗な闇から、背の高いシルエットが現れ、それが近づいてきた。
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