第三章
5
「えっ、そ、そんな」
先ほどから、徐々に移動しながら、ジュジュの断りきれない声が何度も繰り返されていた。
最後は追い詰められて動けなくなり、壁に追いやられたジュジュの目の前で、ムッカが無理に頼み込んでいる。マスカートも遠慮がちにムッカの隣でジュジュに懇願していた。
ムッカがいい考えがあると走って去っていって、暫くしてからマスカートを引っ張って台所に戻ってきた。そのムッカが閃いたいい考えはジュジュには困り果てるものでしかなかった。
よからぬたくらみに巻き込まれてジュジュはずっと拒否しているのにも係わらず、二人は諦めずしつこくジュジュを追い回していた。
「ジュジュの力がどうしてもいるんだ」
マスカートの問題だというのに、ムッカが積極的に頼んでいるのも、ジュジュには納得できなかった。
「私からも頼む」
逃げ場を失い、ジュジュが声を出せなくなったこの時、マスカートも強くお願いする。
マスカートとドルーは落ち着いて話し合いをするも、寄りを戻すかどうかの結論までには行かないでいた。マスカートは正直迷っている。しかし、ずっと辛い思いをしてきて、はいそうですかと素直に応じられない。
そこでジュジュと恋仲になっているフリをして、ドルーにやり返し、それから全てを水に流してお互い様にしようという魂胆だった。
「だけど、そんな事してもなんの意味もなさないわ」
ジュジュは、自分が巻き込まれることが嫌で、精一杯反抗する。
ジュジュが中々首を縦に振らないことで、時間だけが経ってしまい、そのうちムッカは諦めだした。
「やっぱりダメか。仕方がない、マスカート、もう自分で解決しろ」
ムッカは追い詰めていたジュジュから離れ、部屋の隅に置いてあったスツールに、背中を丸めてどさっと座り込んだ。
しかし、マスカートはここまで来ると、ドルーの反応が見たくなり、どうしても諦められられなかった。
ジュジュを壁に追い詰め、至近距離から威圧するように頼み込んでいる時、ずっと待たされていたドルーが痺れを切らして台所まで様子を伺いに来ていた。
入り口から、偶然見えたマスカートとジュジュの真剣なやり取り。それはまさにムッカが思いついたアイデアが実現している絶好の構図だった。
「マスカート!」
ドルーが叫び、ジュジュもマスカートも同時に声のする方向に首を向ける。
ジュジュは、ハッとして慌ててしまい、マスカートは素早い頭の回転で、この状況がグッドタイミングだと判断した。
「ドルー、見られてしまったのなら仕方がない。実はこういう事だったのさ」
咄嗟の機転でマスカートは演技をし、ジュジュは弁解する余地もなく口をパクパクとして言葉を失っていた。
ドルーの顔つきは眉毛が吊り上がり、顔を真っ赤にして血が頭に上っていた。
部屋の隅では、ムッカが高見の見物をするように、面白半分で見ていた。他人事だと思うと、目の前の光景は舞台の劇を見ているようで、楽しいモノだった。
マスカートも、自分がやられたことをやり返すことができ、多少は鬱憤を晴らせていた。ドルーが感情をむき出しにしている姿を見ると、少しは溜飲が下がる。
「ドルー、これで分かっただろ」
マスカートの言い分は、振られたことへの辛い傷が理解できただろうという意味だったが、この時、ドルーが解釈したのは、ジュジュと恋仲だという事が分かっただろうとあてつけとして受け取った。
マスカートがジュジュから離れ、ドルーと向き合おうとすると、ドルーは闘牛のように突進してきて、マスカートを突き飛ばした。
マスカートは予期せぬその行動にびっくりし、突然の突撃でいとも簡単に跳ね飛ばされ、床の上に転んでいた。あまりの衝撃と痛さで、すぐには立てず、呻き声をあげていた。
ムッカも、その無様なマスカートの姿に最初は笑っていたが、すぐに顔が凍りついた。
「おい、マスカート、やばいぞ」
震える声を出し、ムッカがそっとスツールから立ち上がろうとするも、ドルーが金きり声で叫んで抑制した。
「誰も動かないで!」
その声は屋敷の中を劈く勢いで広がった。
ドルーの手には、先ほどジュジュのジャガイモの皮を剥いていた包丁が、いつの間にか握られ、そしてそれは、壁に追い詰められて逃げ場を失っていたジュジュに向けられていた。
「ジュジュ!」
マスカートも大声を上げ、すぐさま体勢を整えて立ち上がろうとするが、ドルーの持つ包丁から鈍い光が放たれるのを見るとすぐさま近づけず怯んだ。
「止めろ、ドルー! ジュジュは関係ない」
「マスカートは私の事が忘れられないはずでしょ。私しか見えなかったんだから」
自分で振っておいて、よくそんな事が言えると誰もが思ったが、我を忘れて包丁を持つ相手に軽々しく突っ込めなかった。
「とにかく落ち着け。そうだ、私はずっとドルーの事を思っていた。振られても、未練がましく、ドルーが戻ってきてくれるのを願ってた。その通りだから」
マスカートもなりふり構ってられなかった。
ドルーはすでに興奮して聞く耳持たずだった。自分が酷いことをしてでも、上の立場でないと気がすまないそのプライドが、ジュジュによって狂わされてしまった。
ジュジュは必死に考える。この場合どうすれば一番いいのか。息を荒くしてなんとか落ち着こうとしていた。
包丁が振り上げられ絶体絶命のその時、モンモンシューが素早いスピードでドルーめがけて飛んできた。いや、飛んできたというより、ボールのように投げられていた。
モンモンシューは素早く、ドルーの手に噛み付くと同時に、誰かが機敏に突進してドルーから包丁を奪った。
そしてその肩幅の広い背中をジュジュに向け、ジュジュを庇うように立ちはだかった。
ジュジュは目の前の背中を見つめ、息を飲んだ。その背中が誰なのかすぐに気がついた。
「私の屋敷で勝手な事をするのは許さない。この屋敷から一刻も早く出て行け」
容赦なく強くドルーを睨みつけ、怒りを露にしていた。
その迫力にドルーは蹴落とされ、魂が抜けたように立ちすくんでいる。マスカートは黙って労わるように、ドルーの肩を押し、そして静かに台所から出て行った。
「ムッカ、そこで何をしている。バルジとカルマンはまだ屋敷には戻ってきてないぞ」
ムッカは息を飲み込み、これ以上のトラブルは面倒だと慌てて出て行った。
騒がしかった台所は静けさを取り戻し、暫く沈黙が続く。その時、調理台に投げられた包丁の音が響いた。
ジュジュの目の前にあった、大きな広い背中は、ゆっくりと動き、ジュジュの視界が再び開けた。
モンモンシューが心配してすぐさまジュジュの胸に飛び込むと、ジュジュは無意識でそれをギュッと抱きしめた。
背中を向けたまま、去ろうとしているリーフに何かを話さなければならないとジュジュは焦ってしまう。
とにかくお礼だけでもと、咄嗟に声をかけた。
「あ、あの、ありがとうございました」
リーフは立ち止まるが振り向きはしなかった。
「礼を言うなら、そこにいる者に言うんだな。そいつがタイミングよく私の目の前に居なければ、咄嗟の行動もだせなかった」
不機嫌そうな声。
また邪魔をしてしまったと、ジュジュは落ち込んでしまう。
「どうもすみませんでした」
頭を下げ、震える声で謝り、そして再び顔をあげれば、ジュジュの目から涙がこぼれていた。自分でもなんで泣いているのかわからないくらい、取りとめもなく水滴が幾度にも垂れていく。
リーフは暫く考えた後、ジュジュに振り向いた。
「何もジュジュが悪いのではない。気にするな」
リーフから労わりの声がかけられた時、ジュジュの気持ちが溢れてしまい、益々涙がとまらなくなった。
リーフはゆっくりとジュジュに近づく。
「極度の怖い体験をした後は、その緊張を和らげようと自然と涙が出るものだ。それは浄化作用のシステムだ。だから思いっきり流せ」
「は……い」
か細く声を詰まらせて答えた。
ジュジュが下を向いていると、リーフのブーツがどんどん自分に近づいてきていた。
目の前でブーツのつま先を見たその直後、体がぎゅっと締め付けられた。
「もう大丈夫だ。無事でよかった」
何が起こったのか瞬時に判別できず、ジュジュが唖然としていると、リーフはすでに台所を出て行った。
時間が経ってから、やっとリーフに抱きしめられてたことを知り、ジュジュの心臓が突然ドキドキしてしまった。
そして涙が止まり、代わりに顔が急に火照っていた。