Temporary Love

第一章


 閉店まであと10分というときだった。
 店の前に中の様子を不自然に覗き込むメガネを掛けた男が目につく。
 ちょうど後ろ向きになっていたなゆみの姿を見つけたとたん、目の動きが止まった。
 ジンジャ!
 氷室は心の中でその言葉を響き渡らせた。
 なゆみが振り向き、目の前のジンジャに目を丸くする。
 そしてはちきれんばかりの笑顔を一杯向けて、喜び勇んで近づいた。
「ジンジャ、早速来てくれたんだ。今日はクラス取ってるの?」
「ああ、多分同じクラスだと思う。ショーンのクラス」
「同じ、同じ。また一緒だね。坂井さんも来るの?」
「うん」
「そっか。今日も楽しい授業になるね」
「それじゃ先に行ってる。また後でな」
「わざわざ来てくれてありがとう」
 なゆみは小さく遠慮がちに手を振っていた。
 それを見ていたミナはそっと近寄って目ざとく「今の人誰?」と聞いている。
 英会話学校で一緒にクラスをとってる人と簡単に説明しているが、なゆみの嬉しそうな顔は惚れているとばらしているようなものだった。
 氷室は気にしないフリをしたものの、急に立ち上がりその勢いでトイレへと向かった。
 なぜか暫くその場所から遠ざかりたくて、足が勝手に動いていた。
 
 閉店後、純貴が声を上げる。
「皆さん、今日もお疲れ様。斉藤さんも二日目なのに、すっかり慣れた感じでよく頑張りましたね」
 なゆみは謙遜して、照れながら首を横に振っていた。
「それで、明日の土曜日、仕事が終わったら斉藤さんの歓迎会も合わせてみんなで飲みに行こうと思います。隣のビルの支店で働いてる人も参加しますので、皆さんも是非参加して下さいね。もちろん会社のおごりです」
 少ししか離れていない隣のビルにも小さな支店があった。
 そこは狭い店舗ながら、外に面しているので通行途中の客が多い。
 同じ店で働いているといっても、めったに顔を合わすことはなく、やりとりは電話で済ます程度だった。
 氷室はその支店の主任が苦手だった。
 自分より年を取り、はっきりとモノを喋らないこもったような話し方。
 小柄なおっさんで気持ちの悪さが引き立ち、同じ主任と同類項にされるのが不快だった。
 そんなのと一緒に飲むのかと遠慮したかったが、なゆみの歓迎会も含まれるとなると無視できない。
 酒が入った彼女がどうなるのか見てみたいなどと、好奇心も膨らんだ。
「斉藤は酒飲めるのか」
 氷室は率直に聞く。
「えっと、あの甘かったら飲めますが、できたらアルコールが入ってない方が好きですね」
「それってただのジュースじゃないか」
 なゆみは氷室の突っ込みに子どもっぽく笑う。
 こいつは根っからのガキだと認定書を作ってやりたくなったが、それが素直さであり、氷室はそれ以上茶化す気持ちが薄れてしまった。
 ガキと氷室も判を押していても、本来おっさんである自分の性格の方がさらにそれ以下だった。
 おっさんがガキ以下…… 幼稚園児か。
 体はデカく見かけは大人で一応寄ってくる女は一杯いた。
 しかし、なゆみの前では、自分が手を取られて引っ張られている気分になってしまう。
 なゆみもまさか氷室の心の内を見破っているのではないだろうか。
 氷室は急に恐れるように、身震いしてしまった。
「コトヤン何してるんだ、早く来いよ、シャッター閉めるぞ」
 純貴がシャッターの下から顔を覗かせて呼んだ。
 すでに皆、店の外に出ていて、自分だけが店に取り残されていたことに気が付くと、氷室は慌てて外に出た。
 シャッターを外から完全に閉め、鍵を掛け終わると、疲れたなどと声が飛びながら歩き出す。
 皆、暫く駅に向かって同じ方向を歩いていたが、一番最初になゆみが「失礼します」と別れを告げた。
 これから英会話学校へ行くのは誰もがわかっていた。
「サイトちゃん、それじゃ頑張ってね」
 ミナがなゆみのことをサイトちゃんと親しげに呼んでいる。
 紀子も、同じように笑顔を向けて手を振っていた。
 あれだけ素直なところを見せられたら、誰も仲間はずれなんてできないのだろう。
 なゆみはすっかりこの二人と打ち解けていた。
 あの美穂ですら、愛想良く「またね」と苛立ちを見せたことをすっかり忘れている。
 その氷室もまた「お疲れさん」と軽く挨拶し、じっとなゆみを見つめる。
 なゆみはいつものように笑っていた。
 仕事が終わり、ほっとする一時でもあるが、これからジンジャに会う喜びにも感じられる。
 ジンジャが店に現れた事で、氷室は妙に気になって仕方がない。
 相手にされてないと思っていたが、店に姿を現したのはどういう意味だったのだろう。
 挨拶程度のただの義理、それとも──。
 氷室はなゆみと別れたあと、ぼーっと歩いていた。
inserted by FC2 system