第二章 ハプニング
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なゆみはグーっとなるお腹を押さえ、英会話学校へと向かう。
ジンジャがいると思うと嬉しさの方が強くて、空腹に構っている暇はなかった。
自分に会いに来てくれたことが嬉しくて、どこか期待するような気持ちに胸が弾んでいた。
足取りはせかすほどに、エスカレーターの上でさえ待ちきれずに駆け上がってしまった。
アルバイト先も英会話学校も同じビルの中だが、地下から二階へと移動すると別世界に感じた。
同じ建物の中であるのに、地下は辛くて厳しい試練、二階はほっとする憩いの場ほどの差があった。
それでも、同じビル内で目的を果たせるのはとても恵まれている事と受け止めていた。
正直、アルバイトの初日はとても辛く、ここで8月末までやっていけるだろうかと奈落の底に落とされたような絶望感を抱いていた。
訳の分からない店独自のシステムや、数々の種類のチケットや金券、ひっきりなしにやってくるお客、そして何より、氷室が苦手だった。
初めて顔を見たとき、なゆみが抱いた氷室のインスピレーションは、学生時代に居酒屋のアルバイトで厳しくされた男性従業員を想起させた。
常に厳しく、調教されるようにいちいち注意され、一緒に働くのが辛かった。
それでも黙って従い、なゆみはひたすら我慢せざるを得なかった。
とにかく笑い、明るくすることで嫌なことを忘れようと必死に働いていた。
またそれと同じような系統の人種と出会うとは思いもよらなかった。
ああいう人はきっちりと仕事を完璧にこなす分、人には厳しく容赦はしないタイプ。
不器用で、ドジな自分には合わないことをよく知っている。
居酒屋で働いていた時もかなり怒られ、理不尽な感情をぶつけられた。
何度もダメだしをくらいながら、必死で働き、何度辞めたいと思ったか知れない。
それでも夏休みに大好きなアメリカに旅行へ行くためには、どうしてもお金が必要だった。
だから歯を食いしばって働き、コツコツと貯めた思い出がある。
目標があったから乗り切れたことだった。
そしてもうあんな辛い思いをしたくないと思っていたが、やはりどこへ行ってもその手の人間に巡り合う定めだと諦めた。
今回もどうしても英会話のローンを払いきらなければならない。
あと4ヶ月、留学する前にこれだけは払いきってやる。
だから辞めるわけにはいかないとなゆみは氷室と向き合う覚悟をした。
辛いときこそ笑顔で交わせ。
それこそ自分のポリシーとばかりに、苦しいときこそ口元を上げることを無理やりにでもする。
笑顔は自分のために意識してやっていたことだった。
薄暗い廊下を歩くと前方に明るさが引き立っている入り口がある。
側には英会話学校であると一目で分かる名称が入った看板が掲げられ、ワクワクとしてくる。
あそこにジンジャがいる。
顔がにやけてくるのを抑え、まっすぐ前を見据えるも、いざ入口に差し掛かった時は緊張感が高まった。
そこでぐっと足に力を込めて、中に一歩踏み込む。
中に入ればホテルのロビーのような雰囲気があり、英語が所々で飛び交って別世界になっていた。
受付で挨拶をしてから会員カードを見せ、その日の授業の出席を知らせる。
その後は生徒が自由に過ごせる待合室で、授業までの時間を潰す。
そこは憩いの場にふさわしく、インテリアも統一された座り心地のいいソファーが並べられている。
目の前はガラス張りの窓がずらっと続いて外が良く見えた。
テレビも置かれ、そこからは常に洋画がいつも流れている状態だった。
ソファーに座って、映画を真剣に見ていたジンジャの頭が目に入った。隣にはジンジャの親友の坂井もいた。
なゆみは迷いなくそこへ向かった。
「ジンジャ! 坂井さん! ハロ〜」
「よお、タフク」
そう言ったのはジンジャだった。
坂井は「キティ」と呼んだ。
基本的、なゆみはここではキティちゃんと呼ばれていた。
その理由は、あの猫のキティちゃんが好きだからというたったそれだけのことだった。
先生からもキティの愛称で通じるほど、そのキティの溺愛ぶりは異常だった。
常にキティのグッズを身に着けていたので、気がつけば自然とそうなったのだが、あんなに好きだったキティちゃんもこのときはどこにも見当たらなかった。
まだ誰もそのことには気がついてないようだった。
そしてジンジャは折角用意されたなゆみのニックネームを無視して『タフク』とまた違った名前で呼ぶ。
ジンジャとタフク。
これには関連している共通の意味があった。
二人だけにしか通じない呼び名は、なゆみにとって秘密を共有しているくらいお互い特別な存在感を見い出していた…… というよりそうでありたいと淡く願う。
クラスが始まるまでまだ10分くらいある。
なゆみはジンジャの傍に腰掛けた。
他にもレッスン待ちの生徒が好き勝手にうろうろしている。
知っている人が居れば、なゆみは積極的に声をかけ挨拶していた。
なゆみは英会話学校ではちょっとした名の知れた存在であり、目立っていた。
時間があればしょっちゅう現れ、人と会う機会がある分、誰にでも声をかけるので、自然とみんなから慕われるからだった。
「さっきは仕事場に来てくれてありがとう」
なゆみが、ジンジャに告げると坂井は慌てて首を突っ込む。
「なんだ、伊勢、聞いてないぞそんな話」
伊勢と呼ばれたのがジンジャのことだった。
くっつけると伊勢神社となる。
本当は伊勢達也という名前があるが、なゆみは伊勢といえば神社と勝手に付けたのだが、よく考えれば伊勢神宮のジングーの方だったが、付けてしまった以上、ジンジャで通すことにした。
そしてそれならと、伊勢でもう一つ有名な赤福もちをもじって、なゆみの頬がお多福っぽいと、お多福もちとジンジャはつけたのだが、それが省略されてタフクの部分だけが残ってお互いそう呼ぶようになった。
こじつけているうちに、勝手に生まれてきたニックネームだったが、ジンジャとのやり取りで出来た名前なので新密度が増した気分になっていた。
実際のところ、ジンジャと親しくなったのは全て坂井のお陰なのだが、そのことはすっかりなゆみの頭から消えていた。
最初なゆみは、坂井と同じクラスが続き、そこで親しくなってから、その後に坂井の親友のジンジャが加わった。
なゆみはここでは顔が広いので色んな人と交流があるが、ジンジャに出会ってからは、あっという間に淡い恋心を抱いてしまった。
そうなるとなゆみは、益々自分の気持ちに素直になり、ジンジャに親しみをもって傍にいるようになった。
積極的にジンジャと話し、目をキラキラと輝かせている。
それを複雑に坂井が見ているのも知らずに、なゆみは天真爛漫に自分の恋に走っていた。
ジンジャと言えば、自分がなゆみに好かれている事も、自分の親友の坂井がなゆみを好いていることも知っていたために、板ばさみ的な状況だった。
しかしジンジャが、なゆみをどう思っているのかは誰にもわからなかった。