Temporary Love

第二章


 その翌日のこと。
 どんなに大きく目を見開いても、腫れぼったい取って付けたようなまぶたが邪魔をして、なゆみの目は半開きになっていた。
 赤い目を通して見た鏡に映った自分の姿。
 それはまさに最悪だった──
 なゆみは暫く絶句して、鏡の中の自分と睨み合っていた。
 この日はすれ違う人にも見られるのが嫌で、うつむき加減に出勤する。
 このまぶたの腫れはすぐに引いてくれるだろうか。
 何度も気にして目をこすれば、益々赤く色をつけたように腫れ上がっていくようだった。
 
 なゆみが店に着いたとき、すでに端のシャッターは半開きになっており明かりが漏れている。
 氷室はいつもより早く来ていた。
 腰を屈めてぬーっとシャッターを潜り、恐る恐る店の中に入って行った。
 幸い氷室は何かをしていて、なゆみに背中を向ける格好になっていた。
 その隙をつき、そそくさと控室に一目散に向かいながら、素早く挨拶を済ませる。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
 氷室が振り返り返った時には、すでになゆみは控室に入ろうとしていて、後姿しか見えなかった。
 そして、この日の朝、氷室もどこかぼやけたようにぼーっとして、控室のドアが閉まるとひっそりと細い溜息を吐いていた。

 なゆみはさっと着替えを済ませ、できるだけ氷室に顔をみられないように朝の掃除に取り掛かった。
 スプレー式のクリーナーを片手にせっせとショーケースを覗き込むように掃除している。
 できるだけいつものまぶたに戻るための時間稼ぎをして、それまでは誰にも顔を見られたくないささやかな抵抗だった。
 しかし、それも無駄に終わり、氷室が話しかけると顔を上げざるを得ない。
 なゆみの顔を見るや否や、氷室はぎょっと目を見開き、露骨驚いていた。
「おいっ、お前その顔どうした。まるで別人だぞ」
「やっぱりまだ腫れてますか」
「腫れてるって、お前もしかして泣いたのか?」
「うーん、そのなんていうか、色々とありまして。気がついたらこうなってました。私もびっくりです」
「一体何があったんだ」
「だからその色々です。さて、仕事頑張ります」
 必死にその話題を避けようとするなゆみに対し、氷室は知りたいとばかりに追求してしまう。
 自分がなぜこの日いつもより早く出勤してしまったか、氷室もまたもやっとした感情を抱いて自然とそうなっていた。
 少しでもなゆみと二人っきりで話がしたい。
 そういう感情が知らずと湧いていた。
 特にジンジャがここに現れてからは、氷室はなゆみの変化には敏感になっていた。
 だから聞かずにはいられなかった、なゆみが一番話題にしたくない話を。
「もしかして、昨日英会話学校でなんかトラブルでもあったんだろ。例えば好きな男に振られたとか」
 回りくどく曖昧に聞くよりも、氷室は自分らしく憎まれ口を叩くようにストレートに言った。
 だが氷室の言い方が意地悪く、馬鹿にした態度にも見えたかもしれない。
 なゆみの忙しく拭き掃除していた手がピタッと止まった。
 鋭い洞察力。
 触れられたくない羞恥心。
 痛い所をもろに突かれて、心臓がドクドクと激しく波打つ。
 逃れられないところに追い詰められた気分だった。
 氷室のような冷血漢の前では、隠し通すこともできず、なゆみは反対に質問をぶつけて突っかかった。
「あの、そうだったら泣くのは恥ずかしいことなんでしょうか」
 なゆみは腫れぼった目をより一層重くして、どよんとした瞳を氷室に向けた。
 開き直ることで、どうしようもない持っていきようのない気持ちが哀れんで見える。
 それでいて、精一杯に氷室に抗議する態度だった。
 氷室は正直たじろいだ。
 これでは小学生のガキのように、思いっきり自分のやってることが恥ずかしくなった。
 まさに気になる女の子に、自分の本心を隠して不本意にいじめてしまう行為──。
 そしてはっとすると同時に、益々ど壷にはまった。
 もう後には引けない。
「ガキだね。どうせ告白もしてないんだろ。勝手に相手に好きな奴がいると一人で思い込んで、そして自分は悲劇のヒロインになって泣いてしまっただけだろ。 恋に恋する乙女ってとこだね」
 自分の本心とは全く違った言葉が出ていた。
 自分の方が大人げなかったと思いながらももう後のまつり。
 なゆみは何も言わなくなった。
 頬がムスッと不満を募らせたように膨らんでいる。
 傷口に塩を塗りこまれたように、深く心の奥まで傷ついていた。
 氷室は自分で言っておきながら、暫くその様子を不安げに窺っていた。
 なゆみは知らないが、氷室はジンジャの存在を知っている。
 あの人のよさそうな雰囲気のするジンジャが、はっきりとなゆみを振ったとは思えない。
 それでも慰めてやろうなどと優しい言葉など出てくる訳がなかった。
 自分もなゆみに好意を抱いている。
 たった短い期間で32歳のおっさんが、一回りも年下の色気もないガキのような女の子に──。
 それに気がついたとき、氷室はまるで高校生にでも戻ったような少年になっていた。
 ずっと忘れていた情熱がぐっと心に点されると同時に、その気持ちをなゆみに感づかれるのが恥ずかしくて捻くれてしまう。
 まったく大人げないその態度に、自分自身が戸惑い、上手く向き合えないでいた。
 自分が意地悪く虐めてしまいながらも、氷室はなゆみの出方を案ずるように見ている行為は馬鹿げたほど矛盾していた。

 そのなゆみは上司だということを暫し忘れてしまうほど、暫く自分の感情をむき出しにして氷室に無言で訴える。
 放って欲しいことなのに、言葉を選ばずに痛い所を突かれてしまうも、それも正論だから、耐えるしかなかった。
 暫く黙り込んでいたが、自分をじっと見ている氷室の視線から逃れられず、静かに口を開いた。
「氷室さんのような大人の方には、やはり私はまだまだ子どもに見えますもんね。自分でも分かってます。氷室さんの意見は正しいです」
 勝利を氷室に譲ったようになゆみはその言葉を受け入れた。
 そういう健気な態度を取るなゆみの方が、氷室よりよっぽど大人に見えた。
 氷室は胸が苦しくなる。
 なゆみはどこまでも真っ直ぐで素直で、常にその場を乗り越えようと踏ん張る姿にまた目を逸らす。
 今度はなゆみが気を遣い、目を逸らした氷室の態度に触れることなく、何事もなかったようにくショーケースのガラスを磨きだした。
 いつもより長くなゆみと二人っきりになったその時間は、二人の仲を深めるというよりさらに溝を深めてしまった。
 氷室は普段より口数少なく、その日を過ごす羽目となる。
 目だけはなゆみの姿を隠れて追っていた。
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