第二章
8
飲み物が一人一人にいきわたったところで、歓迎の意味を込めて乾杯と楽しく声が重なり合った。
適当にみんなとグラスをはじき、最後に氷室が残った。
躊躇しながらも形だけなゆみは氷室にグラスを向ける。
すると氷室は体を前のめりにして、グラスを強くぶつけ返してきた。
嫌味か……
なゆみはそう思いつつ引きつった笑いをしながら、ぐっと一気に半分ほど飲んだ。
「おー、斉藤は飲みっぷりがいいね」
そういったのは川野だった。
たった今初めてあったばかりだが、馴れ馴れしくニヤついた助平そうな笑顔を向けている。
なゆみは初対面なこともあって、愛想良く笑顔を返し、川野に合わそうとしていた。
普段から川野の事が嫌いな氷室は、気安くなゆみに声を掛けるその態度が腹立たしい。
お前は黙ってろ!
氷室は川野に冷めた一瞥を投げかけた。
その間にも、なゆみは残りの半分を一気に飲み干していた。
「おい、斉藤、酒はあまり飲めないんじゃないのか。その飲み方は悪酔いするぞ」
氷室にはなゆみの心理的な気持ちが読めていた。
ジンジャが他の女と歩いているのを見た後では、自棄酒を食らいたくなってもおかしくない。
しかし、こんな大勢のいる席ではプライベートに突っ込むこともできなかった。
そんな氷室の心配もよそに、なゆみはあっけらかんとしている。
「これ、すごく甘くて全然お酒の味しませんでしたよ。喉が渇いていたしおいしかったです」
「だからそういうのが危ないっていうんだ。甘い酒の方がアルコール度は高い」
どんなに氷室が控えろと示唆しても、なゆみは聞く耳持たずだった。
「まあいいじゃないか、コトヤン。斉藤さん、どんどん飲んでね。次何頼む?」
「おい、純貴、煽るな。コイツ、今日は……」
そこまで言葉が出かかったが、その後は口をつぐんでしまった。
口は挟まなかったものの、隣で倉石千恵が何かを感じ取って、氷室となゆみの様子を気に掛けていた。
料理が運ばれてきた時、なゆみの空のグラスを見た店員は、おかわりを進め、なゆみはまた甘いお酒を注文した。
飲み物はすぐになゆみの目の前に差し出され、それを一口飲めば、その飲み易さになゆみはすっかりと味を覚えてしまった。
先ほど飲んだ酒のアルコールがじわじわと体の中を駆け巡り、ドクドクと血が騒いでくる。
その度に、頭がにょきにょきと上に伸びてるような間隔に陥り、気持ちが大らかになって行く。
顔も真っ赤に火照り、赤い熟したトマトのようになっていた。
自分ではまだ酔ってるつもりはなかったが、どうもふらふらとして、体が浮いているような気分がする。
ミナに大丈夫かと声を掛けられ、テンションの高い声ではっきりと「はい」と返事をする。
陽気に振る舞うなゆみのその姿は、氷室にはもう出来上がっている様子に取れた。
宴もたけなわ、一番年上でこういう酒の場に慣れてるところを見せたいおっさんの川野が、『無礼講、無礼講』と調子に乗って叫んでいる。
純貴と美穂は自分たちの世界をテーブルの端で作り、氷室は時々千恵から話を振られて適当に相手していた。
残りの者は好き放題に喋て笑い声を飛ばしていた。
なゆみはすでに三杯目のお酒を飲んでいるところだった。
酒の経験は乏しいので、人生で一度にそれだけのお酒を飲んだのは生まれて初めてだった。
しかも下戸ときているから、必要以上に少量で酔う体質だった。
そんな自分の限界もわからずに、無茶して飲んでいるために、顔は熱く沸騰していた。
べろべろというほど酔ってはいなかったが、氷室の目には相当やばいように映る。
そしてお開きの時、なゆみが立ち上がって初めてそこで自分がふらついていることに気がついた。
誰かがなゆみを支えた。
「あっ、ありがとうございます」と顔を上げたときそこには氷室が立っていた。
抵抗もせず、ぼーっと訳の分からない様子で氷室の顔をなゆみは見ていた。
大人しく自分に支えられている姿は、正常じゃない状態だと氷室にはひしひしと伝わった。
「お前、家に帰れるのか」
「えっ?」
「仕方がねぇな。タクシーで帰れ。乗り場まで送ってやるよ」
「あっ、どうもすみません。タクシーですね。タクシーですか」
他人事のように、訳もわからずに呟くなゆみに、氷室は苦笑いになっていた。
「ほら、歩け!」
馬鹿な犬に向かってリードを引っ張り、散歩に連れて行こうとしている飼い主の気分だった。
「へへへへへ。氷室さんやっぱり怖い」
気持ちが大きくなったなゆみの口から出た何気ない言葉だったが、そこに本心が含まれているのが読み取れる。
「チェッ」とつい舌打ちをしてしまった。
正直に言われて苛立ったわけではない。
自分が怖がられているのはわかりきったことだった。
そんなことよりも、ここまで酔わせるように仕向けたジンジャに怒りの矛先を向けていた。
一途になゆみに惚れられていただけで嫉妬も湧くし、忘れようとしながら酒を飲んだなゆみのいじらしさがもどかしい。
そして自分は怖がられた存在で入り込めずにいる。
この酔っている時だけはせめて自分を頼って欲しいと、正体がなくなったなゆみを支えながら、どこかで期待している自分が卑怯に思えてならなかった。
それでも氷室にとって、酒という魔法にかかってしまったなゆみの傍に居られるのは、少しドキドキとしてしまう。
酔いが覚めた時、なゆみはきっとわかりやすいほどに、嫌がることをわかっていても、この時は優しくしてやりたかった。
皆は純貴にお礼を言い、奢った方も奢られた方もそれぞれ満足にその宴会は楽しい気分にさせてくれた。
余韻を残してお開きとなった後、氷室はなゆみのリュックサックを肩に掛け、もう一方のサイドでなゆみの体を密着して支えていた。
早く歩けないなゆみは、のっそりと動く。
その間に他のみんなと完全にはぐれ、氷室と二人っきりになっていた。
「氷室さん、トイレ」
「馬鹿やろう、さっさと済ませて来い」
まだビルの中の通路を歩いており、トイレはすぐ目の前にあった。
中々すぐにでてこない様子に、氷室は腕を組み、方足を揺らしてイライラして待つ。
まさか倒れている事はないだろうかと、心配で仕方がなかった。
暫くしてなゆみが、ヘラヘラと顔を赤くしたまま、トイレの入り口に現れる。
だが案の定ふらついて倒れそうになっていた。
氷室は世話が焼けると、駆け寄って支える。
「しっかりしろ。お前らしくないぞ」
「何が私らしくないですか? 氷室さんまだ私のこと何も知らないじゃないですか」
今度は絡んできた。
「お前、酒癖悪いな」
「いいも、悪いも、私だって、酔いたいときがあるんです」
「わかった、わかった、いいから黙れ。で、お前の家はどこなんだ」
「あっち」
「いい加減にしろ」
ビルの外に出て、氷室はタクシーがいないか、キョロキョロしていた。
自分に頼っているなゆみの感触は柔らかく、そして温かさが伝わってくる。
意外にもその肩は華奢で、女っ気がないと思いつつも、触れているときはやはり女の子そのものだった。
自分がおっさんだという事も忘れ、心は少年に戻っていく。
当時自分が本当に少年だった時、氷室は無邪気に恋などした事はなかった。
その頃、氷室は親との折り合いが上手くいかずに、反抗ばかりしていた。
早く大人になることを強いられて、勉強ばかりしては冷めて捻くれるようになってしまった。
顔も頭も良く、ちょうど何もかもうまく行ってたから、傲慢で自惚れるようになっていった。
それが後に足を引っ張って、いまこうして挫折している訳だが、なゆみが現れてから、再び青春時代をやり直しているような気分にさせられる。
同じ世代だったらどんなに良かっただろうか。
この隔たりは中々埋められたものではないと、この年齢のギャップが恨めしい。
それでも、暫くなゆみを正直な気持ちで見つめつつ、同じ世代に生きるジンジャが憎らしかった。
「そんなに好きだったのか」
ふと声に出ていた。
「え? 何が?」
「なんでもないよ」
「氷室さん」
「ん? なんだ?」
「気持ち悪い」
「げっ、お前、まさか…… おい、吐くなよ」
「いや、さっきも吐こうとしたんですけど、出なくて、今頃になって、ようやく、うっ……」
なゆみは口元を押さえていた。
「おい、やめてくれー」
氷室はパニックになりつつ、辺りを見回すも、咄嗟のことに都合よくトイレなど見つからない。
しかもこんな人通りのあるところで、吐かすこともできない。
氷室は慌てて、せめてどこか人気の少ないところに連れて行こうと、焦ってその辺の路地に入り込む。
しかし場所が悪かった。
そこはきらびやかにたくさんの看板がところどころで光を放ち、そしてどの看板にもカタカナや英語でホテルという字が入っていた。
「氷室さん…… うっぷっ」
「おい、待て我慢しろ」
氷室は咄嗟の判断で一番側にあったホテルの入り口へなゆみを連れて入っていった。