Temporary Love

第三章


 一夜明けての月曜日の朝。
 どんよりとした暗い気持ちのなゆみとは対照的に、晴れ晴れとして気持ちのいい天気だった。
 出掛けに見つめた青い空に助けられ、なゆみは踏ん張ろうと気持ちを奮い起こし、嫌なことを考えないようにした。
 お酒が入ったことで氷室に失態を見せて、やむを得ずホテルに入ってしまった事。
 出てきたところをジンジャに見られてしまって、ぎくしゃくしてしまった事。
 変な宗教に引っかかって無理やり会員にさせられた事。
 氷室+ジンジャ+宗教
 と、問題が解決しないまま増え続けている。
 どれから解決すればいいのか考えているうちに、職場についてしまった。
 シャッターはまだ閉まったままだった。
 第一の難関、まずは氷室。
 どんな顔をして会えばいいのか、これはなかった事にするのが一番だと、恥も外聞も捨てて忘れたふりをすることにした。
 そうしてその難関が現れた。
 「おはようございます」
 とにかく、いつも通りを振る舞って挨拶してみるも、余計に意識し過ぎて声が大きくなった。
 氷室の出方を、ドキドキとして見れば、なゆみとは目も合わさずに、気怠く「おはよ」と返ってきた。
 氷室もまた、土曜日の自分の失態を気にしつつ、どうしようかと迷いながらいつも通りを装うとして、変に消極的になっていたとはなゆみは知る由もなかった。
 いつも通りを装いながらも二人はとても気まずく、シャッターが開いて、中に入ってタイムカードを押すまで、どちらも行き詰る思いだった。
 なゆみがロッカーの前に立って背中を向けた時、氷室はようやくなゆみを見つめ何か言いたげに口元を震わせた。
 なゆみが制服を取り出したことで、仕方なく控室から出て行った。
 
 土曜日の夜のあの後、なゆみはジンジャとどう接したのか。
 それを知りたいながらも、勝手に切れて去っていた自分が子供じみて、そこをまたほじくり返すのが辛い。
 なゆみが普段通りにふるまっているのを見ると、ジンジャと上手く事が収まったようにも思え、自分だけが馬鹿をみたような気になった。
 気持ちのはけ口のように初対面とはいえ、ジンジャに怒鳴ってしまったが、あれにはジンジャに対しての嫉妬も入っていたと認めていた。
 なゆみに思いを寄せられながら、他の女に手を出して二股かけていると思うと、腹が立ってしかたなかった。
 しかも自分よりも若い!
 それを思うとまた腹が立ってくるから、大人げない。
 しかし、32歳のおっさんが若者の前で切れた姿は、このときになって恥ずかしく思う。
 恥ずかしいと言えば、事の成り行きだったとはいえ、なゆみとホテルに入って押し倒してしまったことも後悔の一つだった。
 なゆみの前で虚勢を張った結果が、アレだった。
 あの時、もし理性が負けていたらと思うとどうなっていたか。
 苛立った感情をぶつけ、勢いでなゆみをベッドに押し倒した時、自分でも馬鹿げた事だとわかっていた。
 痛い所を突かれて、無闇に自分の力を誇示して黙らせるやり方は卑怯だった。
 力づくで押し倒して脅迫したとはいえ、一瞬でも氷室自身ぞくっとする部分があった。
 幸い、なゆみが騒がずに落ち着いていたから、はっとして自分も冷静になれたが、一歩間違えればやばかったかもと後になって事の重大さに忸怩たる気持ちになる。
 日曜日はそのことばかり悶々と考え、なゆみのことが気になって仕方がなかった。
 自分がこれだけ気にしているのに、なゆみが何も言ってこないのはどこか不自然で余計に勘繰りたくなる。
 一体あれから何があった。
 控え室からなゆみが出てきたのを、氷室はちらりと一瞥した。
 目が合えば、敢えて逸らし、また再び視線を向ければ、何か言いたそうで言えずにもどかしさを抱えてぎこちなくなる。
 自分が声を掛けられない分、なゆみからの接触を氷室は待っていた。

 一方でなゆみは、あまりにも静か過ぎるこの状況が却って落ち着かず、時々チラチラと様子をみている氷室がまだ怒ってるのではないだろうかと、不安になってきた。
 目は合うのに逸らし、話したそうなのに敢えて無視する。
 これは謝罪を求めているのではないだろうか。
 なゆみがなかった事にして、忘れようとしていることが腹立たしいのもしれない。
 あれだけ迷惑をかけておきながら、お金も使わせてお礼もしてないことが、今頃になって失礼に思えてきた。
 すでにタイミングを逃してしまい、今更自分から失態を口にするのは憚られる。
 せめて氷室から、お怒りの言葉でもいいから言ってほしかった。
 そうすれば素直に対応できるのに。
 なゆみもまた、チラチラと氷室の様子を見ていた。
 結局はお互い深読みしすぎ、余計ないらぬ気持ちまで取り込んで、重苦しくなっていた。

 あまりにもやりにくく、とうとうそれに耐えられずお互い同時に名前を読んでしまう。

「氷室さん」
「斉藤」

 もう少し待てばよかった。
 ああ、しまった。

「あっ、なんでしょう」
「ん? そっちこそなんだよ」

 一体何を言いたいのだろう。
 何を言うつもりだったんだ。

「氷室さんからどうぞ」
「斉藤から言えよ」

 そっちから言ってよ。
 だから早く言え。

 どちらも、相手の出方を先に知りたくて余計にややこしくなってしまった。
 お互い黙り込んで見つめ合ったままになると、また事態は悪化する。
 氷室が意地を張れば、なゆみは折れるしかなかった。
 勇気をもって、勢いで頭を下げた。
「その、あの、土曜日のことなんですけど。改めて、お詫びします。ご迷惑お掛けしてすみませんでした!」
「だ、だから、あれは、もういいって言っただろ。忘れてたよそんなこと……」
 口先を尖がらせてわざとらしかった。
 しかし、氷室は自分が聞きたい事に話を持っていく。
「……で、その後あいつと誤解は解けたのか」
「誤解? そんなの何もなかったです。ただ私が勝手に好きだっただけで、それで世界を作ってしまって、彼にはいい迷惑でした。ジンジャ、優しかったから私を傷つけたくなくて、彼女がいること私に言えなかっただけなんです」
「あのな、彼を美化するのはお前の勝手だが、そういうのが一番傷つけるんだぞ。男というのははっきりという方がいいんだ。中途半端な優しさ程、酷なものはないぞ。それにいいように思われたいと気持ちを曖昧にするのは卑怯者がすることさ。だから二股かけてたんだよ、あいつは」
「二股って…… だから、ジンジャには関係ないことなんです。強いて言えば、被害者です。私が勝手に夢見てただけだから」
「ジンジャ、ジンジャってお前、宗教の神社みたいな響きだぞ。神道を崇拝してどっかの神社にでもお参りにいってこい」
「あっ!」
 なゆみは宗教というキーワードに酷く反応してしまった。
「なんだよ、急に叫んで」
「いえ、その、ちょっと宗教について思い出したことがあって」
「お前、変な宗教に引っかかったなんて言うなよ。最近この辺り、声掛けて会員を増やそうとしている宗教団体があるって聞いたから、気をつけろよ」
「えっ、それってどんなのですか」
「なんでもビデオを見せて、洗脳させるらしいよ。しっかりと感想を言わせて、どこが良かったかってしつこく聞くんだって。そういう事を何度も繰り返すと、それが素晴らしいものに思えてくるらしいから。最後には信じてしまうって訳」
「こ、怖いですね」
「信じさせられるほど、歪む事ってないからな。特にお前みたいなタイプはカモだろな」
「ええっ」
 なゆみは顔を青ざめた。
 まさか会費を払ったとこがそんなところだったらと思うと怖くなる。
「とにかくだ、ふらふらするなよ。お前は危なっかしいところあるから。それはこの間で充分理解した」
「は、はい」
 なゆみは氷室にまでふらふらしていると言われショックだった。
 ジンジャにも、そして坂井にも言われた。
 急に自信を失くしたように、がっくりと肩を落とした。
 それは一度に背後霊を沢山呼び寄せて、肩に一杯取り憑かれたように祟られたような暗さだった。
「おい、斉藤?」
「はっ、はい」
 氷室に振り返ったなゆみの表情が、急にげっそりとしていた。
 氷室が異変を感じ、何か言おうとしたが、その時他の従業員が出勤してきて水を差されてしまった。
 人が増え、店の中が活気づき、なゆみはミナや紀子と楽しそうに会話を始めたが、なゆみは明らかに何かを背負って暗く陰っている。
 氷室はそれを気にしていた。
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