第三章
6
「なんだ、じろじろ見て。俺の顔になんかついてるのか」
「はい。目と鼻と口が」
「眉毛もだろ。忘れるな」
「そうでした。すみません」
呆れるような古典的な返しですら、こんな反応が返ってくるとは思わず、冗談が通じる人なのか通じない人なのか分からなくなる。
まだ油断ならぬものも感じ、今にも落ちそうな吊り橋を渡るように、ハラハラとドキドキが一気に押し寄せた。
氷室もまた自分のやっていることがこれでいいのか、自信がもてないでいた。
なゆみが支店に出向いて戻ってくる間に、邪魔ものの従業員を先に返したのは、少しでも二人きりになりたいと思ったからだった。
英会話学校が休みと聞いて、思いつきで食事に誘ってみたが、貸しがあるだの、腹が減ってるだのとごちゃごちゃ理由をつけたのは男らしくない。
本心は一緒に仕事ができなかったために、側にいる時間が少なくて寂しかったからであった。
なゆみが言った『寂しがりや』は本当は当たっていた。
小学生に上がった頃、母を亡くし、父はそのあと再婚してそして弟ができた。
その後、弟ばかりがかわいがられ、親の愛情に飢えていたのかもしれない。
思春期は絵に描いたような反抗期。
そして誰にも頼らずに自分の力だけを信じて勉強も頑張ってきたつもりだった。
自分は何でもできる、努力は報われるなど
と思っていたが、自信過剰な奴に限って困難にぶつかるとあっさりと挫けてしまう。
結局は弱い人間。
自分を否定し続けることしかできない。
それなのに、なゆみに出会ってから、それが間違ってると思い知らされる。
困難にぶつかっても、当たり前のように素直に真っ直ぐ突き進む姿を見せられては、昔の自分の姿を思い出せといわれているようだった。
俺はこいつが必要なのか──
氷室もまたなゆみをじっと見ていた。
「なんですか。私の顔にもなんかついてますか」
「いや、なんもついてない」
「えっ、それじゃのっぺらぼうじゃないですか」
「違う、すっぴんってことだ」
「あっ、そうでした。やっぱりこれって女捨ててますよね」
「そっか、充分かわいいと思うけど」
「えっ?」
ちょうどその時トンカツが運ばれてきた。
聞き慣れない言葉に惑わされなゆみは呆然としていた。
「どうした。早く食えよ」
「あっ、はい。いただきます」
アツアツの揚げたてを一切れ箸で掴んで口に入れたとたん、さくっとした食感と肉のうまみが合わさって、なゆみの目が見開いた。
そのままの表情で、もぐもぐと咀嚼していた。
氷室はなゆみのリアクションにクスッと漏らしていた。
「うわぁ、美味しい! これはいける! ここのトンカツ最高ですね」
「お前、なんかおっさんみたいだな」
「いやぁ、おっさんの氷室さんに言われるなんて」
「おいっ!」
「へへへ」
美味しいものを前にして、気がすっかり緩んだ二人は、上司と部下、または一回りの年の差も忘れて、素直に感情を見せ合いながら一時を過ごしていた。
食事が終わる頃に、ウエイトレスが柚子シャーベットを運んできた。
「これ、店からのサービスです」
氷室が店の奥を覗き込み店長と目が合うと、手を上げていた。
「ここのオーナーと親しいんですか」
なゆみは一匙のシャーベットを口にいれ、その冷たさに目を細めていた。
「ああ、まあな。昔仕事でこの店のインテリアやデザインを任されて設計したんだ」
「えっ、ここ氷室さんがデザインされたんですか」
細めていた目が、急激に見開き、思わず辺りをまじまじと見渡した。
格子がアクセントになって、和のスタイルをとりこみながら、今風のモダンな部分を出している。
統一感のある色合いと空間。
西洋人が考えるような日本のスタイルと言った雰囲気がした。
なゆみは神でもみるような目で氷室を見ていた。
氷室は大げさだと、鼻であしらう。
「作ったのは大工たちだ。俺は紙の上で頭を働かせただけだから、大したことはない」
「でもすごい。尊敬しちゃいます」
「それにもう昔の話だ。今は関係ない」
「えっ、どうして、こんなに才能あるのに、なんでそのお仕事辞めちゃったんですか」
「それもお前には関係ない。世の中夢だけで生きていけないってこともあるってことさ」
「夢だけで生きていけないかもしれないけど、夢を持たなければそれまた生きていけないと思う。夢があったら諦めちゃだめです」
「お前は調子に乗ると、すぐに生意気な口を利くよな」
「でも、これだけの氷室さんが作ったものを見せられたら、私、生意気な口ももっと生意気になります。氷室さん、一体何から逃げてるんですか?」
緊張が走って固まったように、氷室の動きが一瞬静止した。
気を取り直し、何事もなかったように再びシャーベットを口に入れ、おもむろに食べ干してしまうと、スプーンを投げるように入れ物に落としていた。
「何からも逃げてなんてないよ」
「氷室さん、嘘つきなんですね。それに嘘をつくのが下手だ。ほんとは夢を追いかけたいのに、失敗するのが怖いんだ」
「もういい加減にしろ。折角の食事がまずくなる」
「本当のことを言われたから、耳が痛いんでしょ」
いくら気持ちが和んで親密度が増したと感じたところで、なゆみは言い過ぎていた。
普段自分がやられていることを、やり返したのもあるが、氷室には確かな才能があり、それを簡単に諦めている事に苛立ちを感じてしまった。
一言いわずにはいられなかった。
突然氷室はテーブルの請求書をひったくるように掴んで立ち上がり、そしてレジへと向かった。
「釣りはいらない」と5000円札を置いてなゆみを置き去りにしてさっさと出て行った。
「あっ、氷室さん」
なゆみは店の中であたふたとして、店長に頭を下げて礼を言うと、慌てて後を追いかけた。
氷室はなゆみなどいなかったように、人ごみに紛れて繁華街をスタスタ歩いていた。
「氷室さん、待って下さい」
追いついたなゆみが後ろから氷室の腕を掴んだ。
そのとたん氷室は立ち止まり、暫く無言のまま動かなかった。