第三章
7
「氷室さんってば、私を置いて勝手に行かないで下さい。それにここは私が払う番でしょ。もう、一体何をそんなに怒るんですか。氷室さんだっていつも本当のこと私に言ってるじゃないですか。自分の時は逃げちゃうんですか。子供じゃあるまいし……」
我慢しきれない感情を、氷室は拳に込めて握りしめた。
感情に支配されて体が震えている氷室に気が付くと、なゆみは咄嗟に掴んでいた手を離した。
「そうだったな。奢ってもらう番だったな。それじゃもう一軒行こうか」
どこか意地悪とでもいうような投げやりな声のトーン。
このままではすまないと言いたげに、氷室はまた虚勢をはってしまいなゆみを無理やり引っ張って歩き出した。
「ちょっと待って下さい、氷室さん。そんなに強く掴まれると痛いです。一体どこへ行くんですか」
なゆみは首輪を無理やり引っ張られるのを嫌がる犬のように、体を反らして抵抗している。
氷室はお構いなしに引っ張り続け、繁華街を抜け、怪しげにネオンが光る通りへと踏み込んだ。
なゆみを怖がらせたいのか、力の加減を見せつけたいのか、何かある度に大人の男だというのを強調しようと、なゆみが困る方向へ持っていこうとする。
またホテルの看板を見た時、なゆみはお仕置きされている気分になった。
「さあ、入るぞ」
「ちょ、ちょっと待って下さい。氷室さん、こんなときに冗談はやめて下さい」
「どうした、お前も結局は逃げるのか」
「それとこれとは話が全然違うじゃないですか。ここに入ってどうするんですか」
「そんなのわかってるだろうが」
氷室は歯を食いしばり表情を歪ませた。
自分でもガキだと充分にわかってながら、後には引けずにに虚勢を張り続けている。
なゆみの目にも駄々をこねた子供にしかみえなかった。
それはあまりにも哀れで、助けてあげたいと思ってしまう。
自分の言った言葉がトリガーになってしまったのなら、なゆみにもその責任はあった。
「わかりました。入りましょう。それで氷室さんの気がすむのなら。私協力します!」
なゆみは自らホテルの入り口に向かった。
「このホテルでいいですか? それともあっちですか? もちろん私のおごりですですから、お好きな場所をどうぞ」
「斉藤…… お前」
なゆみの機転で全てが馬鹿らしくなり、氷室の気持ちが収まるというより萎えていく。
「バカ野郎、こんなところでそんな大声出すんじゃない」
罪悪感とその馬鹿さ加減に参ってしまい、氷室はなゆみを引き戻し、その反動で力余って抱きしめてしまった。
なゆみは倒れ込むように氷室に抱きしめられていた。
耳元に氷室の声が届く。
「ごめん。ほんとにごめん」
「氷室さん……」
自分の傷に触れられると、氷室は感情をコントロールできないで、力を見せつけようと空威張りする。
それが年下のなゆみの前だと、自分が大人の男だという事を誇示してしまい、恐ろしさを植え付けようとする。
本気じゃないが、意地を張り続けれは、襲わざるを得なくなってしまうのかもしれない。
なゆみは氷室の苦しい気持ちを真っ向から受け取り、自分も一生懸命になって、あんな受け答えをしてしまった。
決してからかっていた訳ではなかった。
なゆみにしても、氷室を助けたい一心だった。
氷室に抱きしめられ、なゆみは大人しくそれを受け入れている。
氷室にはそのままの気持ちを受け止める誰かが必要なのだ。
これで、少しでも役に立つのなら、これもまた今まで自分が助けてもらった恩返しでもあった。
そこでなゆみははっとした。
「氷室さん、さっきのトンカツ代なんですけど、いくら払えばいいですか?」
「えっ?」
氷室は我に返って、慌ててなゆみを解き放した。
そして何事もなかったように歩き出す。
「氷室さん? ちょっと待って下さい。だからあの、トンカツ代……」
「もういい、あれも奢りだ」
「そんな、それじゃ困ります。氷室さんってば」
なゆみは本当に鈍感なのか、それとも何事もなかったように気を遣ったのか、それは氷室ですら判断しかねたが、お陰で二人はまたいつも通りに自然と戻っていた。
なゆみをあの店に連れて行ってしまった──。
氷室はなぜそうしたのか、今更になって自問自答する。
自分が築き上げたものをなゆみに見せたかったのか、なゆみに感化されてもう一度あの店で自分の当時の気持ちを見てみたかったのか、どっちにしてもなゆみの影響には間違いなかった。
一回りも違う子供っぽいなゆみによって、氷室は自分の中の何かが変わりつつあるのを確実に感じていた。
「さっきはすまなかったな」
やっと素直に謝ることができた。
しかし、抱きしめた事で、自分の気持ちがばれてしまったかもしれない。
そうなれば、氷室は素直に気持ちを伝える決心を固めた。
「いえ、別に、大丈夫です」
なゆみはいともあっさりと、あっけらかんとしている。
「でも俺、お前を抱きしめて……」
「ああ、ハグでしょ。私いつもやりますよ。アメリカ行ったとき、癖になっちゃって抵抗なくなりました」
「そ、そうか」
この鈍感さはなんだ。
そこは俺の気持ちに気づくとこだろうが!
氷室はなんだか気が抜けた。
だが、却って気が楽になり、ふっきれた笑いをなゆみに向けた。
どこからともなくコーヒーの香りがしてくる。
カフェショップに目をやり、氷室はいつもの俺様の調子に戻った。
「お前、俺にコーヒー奢れ」
「あっ、はい!」
なゆみの元気な声が、氷室の耳を通して、心の奥にまで刺激をもたらせた。
暫くはこれでいい。
氷室は優しい瞳でなゆみを見つめていた。
二人は冗談を言い合いながら、カフェショップの中へと入っていった。