Temporary Love

第三章


 それから一週間は何事もなく普通に過ぎていった。
 なゆみは注意されることも少なくなり、要領が分かってコツも掴んで順調に事が運んでいっているようだった。
 訳が分からなくて絶望を抱いていた初日が嘘のように、何も困ることはなく業務を一通りこなせるようになっていた。
 よく考えれば何も難しい仕事ではなかった。
 氷室とは挨拶をする程度の話しかしなかったが、なゆみは氷室が側にいることでどこか安心して働いてる気分を味わう。
 怖いという部分はすっかり消えていた。
 自分だけが知ってしまった氷室の本当の姿。
 他の従業員がそれを知らないと思うと、どこかそれが優越感のような特別な感情が芽生えてくるようだった。
 この頃になると氷室に対して親近感を覚えるところまで来ていた。
 まるでそれは飼いならされた犬みたいな感覚でもあり、少し慕いたくなってくる。
 それが自分でも不思議で、なぜそう思うのか考えようとするのだが、そうするとまだ気を許すなとどこかで心が急にストッパーを掛けてしまう現象が起こる。
 これ以上深く考えないようにと心が自然と締め出したようだった。
 どこかでまだ心を開ききっていない。
 そこにはジンジャへの気持ちがあったからかもしれない。
 ただ一つ、最近よく笑うようになった氷室の笑顔を見るのは、とても好きだとはっきり言えた。

 仕事が終わればなゆみは英会話学校へと足を向けるが、今度は二階が試練の場と変わりつつあった。
 ジンジャに会ったらどんな顔をしていいのかわからない。
 出会ってしまったときはぎこちなくなる態度が目に見えて、その時を怯えてしまう。
 ジンジャと出会うことをどこか恐れている。
 だからビクビクとしていつも英会話学校の入り口をくぐっていた。
 だが不思議なことにジンジャも坂井もすっかり見なくなってしまった。
 きっと昼間のレッスンを取ってるに違いない。
 自分がジンジャならきっと避ける道を選ぶだろう。
 なゆみは何日も会わなくなったことで、そう思えてきた。
 開き直りも入ってしまうと、なんだか急に学校の中が色あせて見えてくる。
 冷静に考えれば、いつかはここともお別れする日が来てしまう。
 そうなればジンジャと会うこともなく、物悲しい思いに捉われてしまった。
 だけどここはあくまでも学校であり、学ぶところで遊ぶところではない。
 留学を控えている身なのだから一生懸命練習しなくてはと、なゆみは邪念を捨て、ジンジャのことを考えないようにした。

 そして日曜日のこと。
 朝のレッスンを終え、馬鹿正直に例の宗教の事務所へと足を運ぶ。
 ここは真面目すぎる性格が仇になっていた。
 ジョンがビルの外の入り口でなゆみを待っていた。
 なゆみに会えば、笑みを添えて嬉しそうに語りかける。
 なゆみにとってはまだ英語の授業の続きのように思えて、英語になると必要以上に調子に乗って受け答えしてしまう。
 英語を話せる機会が日本では少ないので、ずっと英語漬けになれるのは歓迎すべきとさえ思っていた。
 しかしそれが、なゆみの盲点をついた彼らの策略であることに気づくことができなかった。
 事務所に入ると、やはりそこにいたスタッフからの歓迎の嵐だった。
 VIPのように扱われると、気持ちがよくなる。
 ホストに嵌る人たちがいると言うが、その気持ちが分かるような気がした。
 まだこの時は、自分を見失わず、気を付けていた。
「なゆみさん。いらっしゃい。よく戻ってきてくれました」
 柳瀬が深々とお辞儀をして迎えてくれた。
 ジョンもその隣で大げさに気持ちを表している。
 なゆみも礼儀として愛想笑いを返すと、その態度が自分も再びここに戻ってこれたことを喜んでいると決めつけられた。
「今日はですね、なゆみさんに取っておきの情報があるんですよ。これを見てもらえば、私たちがいかにこれからどうすべきかわかるんです。是非見て下さい。 30分程度のビデオですから」
「えっ、ビデオ?」
 氷室が言っていた話がこの時頭によぎる。
 不安のまま、視聴室に案内されれば、そこには左右をパーティションで区切られた一人用のビデオ視聴覚スペースが用意されていた。
 すでに誰かがテレビの前に座って真剣に観ていた。それを横目になゆみもその一つの小さなスペースに座らされ、ヘッドフォンをつけビデオを見せられた。
 何も言えず、なゆみはなすがままに大人しくビデオを観てしまった。
 内容は聖書に基づいていることだった。
 人類は罪を常に犯している。
 それを悔い改め、常に心をきれいにしていればやがて永遠の命を手に入れられるなどと語っている。
 「うそぉ!」と思わず嘆いてしまった。

 氷室さん、私、ほんとに引っかかっちゃったみたい。

 どうしようもなく30分我慢して適当に見ていたが、視聴が終わると、柳瀬とまた向かい合い、内容の感想を尋ねられた。
「どこがよかったですか」
 なゆみは返答に困ってしまった。
 まさに氷室が言ってた通りになっている。
 それでも柳瀬の仏のような笑顔と親切な態度を邪険にできない。
 そしてジョンが英語で力を入れて説明してくる。
 なゆみは逃げられなくなって、適当に覚えていたことを言ってみた。
「そうですよね。いいところに気がつかれました。その通りなんです。なゆみさんは普通の方と違って理解力があります。きっとこれは神のお導きですね」
 どんどん先へ進んでいく。
 まるで神の国へ案内されるようだった。
 ビデオの内容のことが終わると、あとは雑談が始まり、ジョンがしきりに話しかける。
「ジョンはなゆみさんのことすごく気に入ったんですって。あれからずっと忘れられないって言ってたんですよ」
 柳瀬が大げさに説明する。
「そうですか。ありがとうございます」
 形だけのお礼を言っても、この人たちは本気にとって、なゆみも喜んでいると思い込んでしまう。
 恐ろしく前向きで、有無を言わさすそこへ持っていくから、なゆみはどうしていいのか分からなくなってきた。
 暫く、毎週日曜日はこの状態がずるずると続いていった。
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