Temporary Love

第四章 アストニッシング


 クラスの課題で与えられたプリントを見つめつつも、上の空のなゆみは焦点の合わない目でボケーッとしていた。
「(キティ、何をしてますか)」
 油断していたところを先生に突然当てられ、なゆみの体がビクッと反応して素で驚いていた。
 一斉に視線を浴びて、皆と目が合うと気恥ずかしくてたまらない。
 苦笑いになりながら、たどたどしく疲れていたことを押し出して謝るが、先生は調子にのってわざといじめるように叱ってくる。
 そのやり取りがクラスの笑いを誘っていたが、いつもならそれを利用して盛り上げていただろうが、気分が乗らない。
 その後プリントに沿った質問をされたが、咄嗟に理解できず、余計に焦って答えられなかった。
 隣の人が教えてくれたお陰でその場は凌げたが、気がかりなことに心は支配され、全く集中できずにいた。
 ジンジャに今晩電話しようかと考えていたが、帰れば夜遅くなるし、前回のようにまた怒らせてしまったらと思うと躊躇してしまう。
 あれこれ迷いが生じているうちに授業どころではなかった。
 久しぶりに会ったジンジャ。
 変わらぬままにまた笑顔を向けてくれた。
 いつも追いかけて、素直に「ジンジャが大好き」とまで恥ずかしくもなく普通に声に出して言っていた日々。
 ジンジャに彼女が居ると知ってから、あの頃が嘘のようにぎくしゃくし、いともあっさりと縁が切れたような状態がずっと続いていた。
 次第に諦めて、それを受け入れる気持ちになっていたところに、以前と変わらない様子でひょっこりと自分を探しに現れたが、嬉しかった反面、どこかもやもやっとしてしまう。
 なゆみもまた心に変化を生じている。
 ジンジャと会わなくなってから、心の中に新たに根付いたものがあったからだった。
 そこにジンジャが再び現れたことで、不安定に心の中で何かが揺らいでしまう。
 クラスが終わると、なゆみはもたもたする暇もなく誰とも交わりたくなくて早々と学校を去った。
 外気に触れてすっきりしたかったが、ビルのドアを開ければ、湿気を含んだ空気がべたっと素肌に張り付いた。
 じわっと湿りこんだ空気に纏わりつかれれば、気分は一向に晴れず、気怠くなっていく。
 都会のビルの間の暗い夜道、すれ違う人々の中、何気に空を見上げれば、遥か頭上に薄らと雲に包まれたおぼろげな月が見えた。
 暈をかぶって淡い光の輪が囲んでいる。
 ピントがずれたお月様。
 何もかも中途半端だと知らせているようで、やるせない思いを抱いてしまった。
「明日は雨かな」
 独り言を呟きながらその月をぼんやりと見つめていると、突然黒ぽい大きな塊がにゅっと横から現れ、肝を冷やすように驚いた。
「今、帰りか。遅いんだな」
「ひ、氷室さん。びっくりするじゃないですか。一体こんな時間に何をしてるんですか」
「仕事の帰りだけど。何か?」
「でももう9時過ぎてますよ」
「残業だ。支店周りとかたまにあるんだ」
 本店でなゆみの姿をチラッと見た後、急に入った別の支店での仕事。
 うっとうしくてやる気も何もなかったが、このときになって氷室は突然入った残業も悪くなかったと思った。
 街明かりの光に微かに照らされたなゆみのシルエットを見つけたときは、久しぶりに身が軽くなったように夢中で走って追いかけてしまった。
 だがそれを悟られないように、表面はクールを装っている。
 そんな氷室の気持ちも知らずになゆみは力なく形式的に答える。
「あっ、残業だったんですか。それはお疲れ様です……」
「なんだ、元気ないけど、またなんかあったのか」
「えっ、いえ、別に」
「嘘言えっ! あっ、もしかしたらジンジャに会ったんだろ。最近本店で時々見かけたぞ。なんだかお前のこと探してた感じがした」
 なゆみから小さな吐息が漏れた。
「やっぱり、氷室さんは洞察力がありますね。その通りです。彼、就職の内定を貰ったって報告に来ました。その後も何か話したそうにしてたんですけど、私の授業が始まって、それで彼は先に帰ってしまいました」
「ふーん、いつも煮え切らないね。で、お前はジンジャとどうしたいんだ?」
「えっ、別にそんな、どうしたいとかって言われても」
「好きなんじゃなかったのか」
 氷室はさりげなくなゆみの心境を探っている。
「だけど、ジンジャには彼女がいるし」
「お前、本当に彼の口から聞いて確かめたのか? 自分でそう思い込んでるだけかもしれないじゃないか」
 もしもの対応にも備えて違う角度からも伺ってみるが、氷室の唇が尖がって声が上擦っていた。
 なゆみはじっと前を見据えて黙ってしまったが、突然氷室に振り返った。
「氷室さん」
「なんだよ。急に」
「私、わからなくなりました」
「何が」
「だからほんとにジンジャのこと好きなのかなって。なんていうんだろう。恋してるとき、すごく楽しかったんです。今日はレッスンに来るかなとか、クラスで 思いっきり一緒に笑ったとか、声を掛けてくれたとか、そんなちょっとしたことでもうきうきできることが嬉しかった。ジンジャはそれに合わせてくれて、てっ きり特別な関係だって思い込んでしまって、そして益々気持ちはエスカレートしていった。でも……」
「でも?」
「少し距離ができたとき、ジンジャと学校で会わなくなったんです。ジンジャが避けてたのかどうか分かりませんが、私も8月末にはあの学校終えるんです。そ うするともうジンジャに会える機会がなくなっちゃう。そして私はアメリカに一年留学するし、そしたらもうそれまでなんだって急に夢から覚めたような気持ち になりました」
「だから、何がいいたいいんだ?」
「なんていうんだろうこういうの。英語にするとテンポラリーラブ……」
「テンポラリーラブ?」
「仮の恋っていう意味。そのときだけ盛り上がって、勝手に好きになって、そして時期が来たら忘れていく。私も雰囲気にすごく酔っていたかも」
「面白いこというんだな。テンポラリーラブか。それって、本気の恋には繋がらないのか」
「本気の恋? それだとトゥルーラブって訳すのかな」
「それは真実の恋と訳してしまうから、本気の恋はアーネストラブ、またはシリアスラブの方がしっくりくるかな」
「氷室さん、もしかして英語得意?」
「得意というのか、多少はできる。これでも学生の頃は勉強頑張ったからね」
「それじゃ、今からもまたやり直せばいいのに…… あっ、ごめんなさい」
 つい、口が滑ってしまって、氷室が怒り出さないか恐れてしまった。
「そうだな。そろそろやり直してもいい頃かもな。俺もお前の言葉を借りるなら、今はテンポラリージョブだな。仮の仕事」
「氷室さん、なんか変なものでも食べた?」
 なゆみは素直に受け答えする氷室にびっくりしてしまう。
 氷室の顔を瞬きしながら見つめると、暗闇の中でも薄っすらとした光を受けて氷室の瞳が黒くつややかに光っていた。
 それはまろやかな優しい目に見えた。
「はっ? なんだよそれ。でも、変なものには出会ったかもしれない」
「ん? 変なもの?」
 氷室はおぼろげな月を見上げた。
 それにつられてなゆみも一緒になって見上げてしまった。
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